指導部の末期症状

 もうすぐ戦後80年の節目です。

 日本共産党の党首だった不破哲三さんの『スターリン秘史』5には「日本。戦争指導部の末期症状」という節があります。

 今日読むと味わい深いものですので、紹介しておきます。

 

 まずは戦争末期の1944年10月にあった「台湾沖航空戦」です。

 ベテランの飛行士の多くが戦死して不在になる中、若い未熟な飛行士たちが大量に即成栽培的に育成され、この戦闘に参加させられました。

 「火柱が上がった」という若い未熟な飛行士たちの「報告」と「それは撃沈したのでは?」という参謀の「推察」をもとに、架空の戦果が積み上げられ、それがさらに上に行くほどなぜか増えていくという奇妙な経過をたどっていきました。

 

 まず、最初の大失敗は、…いわゆる「台湾沖航空戦」で起こりました。…出撃した前線部隊からの過大な報告を集計した戦争指導部は、空母一九隻、戦艦四隻などを撃沈・撃破して機動部隊を潰滅させたとして、その戦果を大々的に発表しました。しかし、現実には、撃沈された空母や戦艦は一隻もおらず、機動部隊はほとんど無傷で、予定通り、フィリピン攻撃作戦に参加したのでした。戦争の実情も把握できない日本の戦争指導部の無能さを世界にさらけ出した“航空戦”でした。(p.223)

 誇らしげに報告する小磯國昭をご覧ください。

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 そして、その架空戦果をもとにした机上の空論となった、フィリピン「決戦」。

 …台湾航空沖の架空の戦果で強気になった大本営は、機動部隊の支援なしの米上陸軍は水際で一挙に撃滅できると判断し、既定の作戦計画をくつがえして、ルソン島からレイテ島に兵力を動かして、レイテで「決戦」を挑むことを決定、現地軍の反対を押し切って、これを強行させたのです。

 ところが、一〇月二〇日、米軍は、大本営の判断を嘲笑うように、強力な機動部隊の援護のもとにレイテ島に上陸、大本営机上の作戦計画は一撃で崩れ去りました。(p.223-224)

 そして、敗戦はすでに時間の問題でしかなく、一刻も早い降伏が必要なのに、“もう一度どこかで勝利を挙げてから、降伏の条件(国体=天皇制護持)を少しでも有利に”などという議論にこだわっていく様子です。

 抜本的な手立てを取れずに、目の前の小さな修正でなんとかなると思っている指導部たちの無能ぶりが浮き彫りになります。

 もしこの時期に、日本の戦争指導部が、敗戦必至の現状を的確に見て、戦争の継続を断念していたら、三月、五月の東京大空襲も、沖縄戦の悲劇も、広島・長崎への原爆投下とソ連軍の満州蹂躙という八月の二重の惨禍もなかったでしょう。この歴史をふりかえるとき、私たちは、なんの勝算もないまま、「国体護持」の空文句を盾に、国民に戦争の惨害を強制し続けた日本の戦争指導部の罪深さを告発せざるをえません。(p.225)

 やがて大量の犠牲が出て国土が焦土になっても、なおも従来の戦略の延長にしがみつき続けたところに組織体としての深刻な病理をみないわけにはいきません。

 

 そして戦争末期になって「ソ連に和平の仲介を頼めないかな〜」などと呑気に空想する非現実性を告発します。

この文章を読んで驚かされるのは、まず、世界の動きとその中で日本がおかれている立場について、あまりにも無知なことです。(p.228)

 しかも、とんちんかんな外交交渉と、そうした判断をするのに、研究したり会議を開いたりする時間を、悠長にとっていることでした。不破氏はそこも厳しく告発します。

しかし、それ以上に驚かされるのは、事態は一刻を争う緊急の状況であるにもかかわらず、ことをすすめる工作方式の愚かさとテンポの悠長さです。(p.230)

 

 キリがありませんのでこれくらいに。

 不破氏は、こうした日本の戦争指導部の状況を渡辺治氏との対談で次のようにまとめています。

戦争に責任を負う人間がいないのです。それが絶対主義的天皇制という戦前日本型の専制制度の特質ですね。最高責任者がいるからということで、実際に問題を担当する人たちが無責任きわまる行動をする。(不破・渡辺『現代史とスターリン』p.232)

 

 ここには、かつて共産党が批判した丸山眞男の「無責任の体系」論に非常によく似たものが見出されます。

 アジア・太平洋戦争での日本の戦争指導部の指導の惨状は『失敗の本質』などで現代でも政治や組織の教訓として強く関心を持たれ続けています。

 このような指導部の末期症状ぶりは、現代日本においても、決して他人事ではないのだと思いました。