日本共産党が27年1月予定の第30回党大会に向けた議案を発表し、その中で党綱領の一部改定案を出しています。
そのことについて私の考えを述べます。
結論から言えば、「そんなことやっている場合ですか」ということです。これは前にも述べましたね。
今度の大会の中心テーマが綱領を最良のものに仕上げるということだそうです。
目と耳を疑いました。
組織改革じゃないんですか?
共産党は選挙のたびに大敗し、党勢が加速度的に衰退し、現場ではすごい勢いで高齢化と後継者不足による逼迫・悲鳴が起きており、むしろ新しい党組織論——組織改革の抜本方針を出さないといけない中で、その最大の矛盾と困難には何ら答えを出さずに、全くあさってのことをやっているというのが私の率直の感想です。
「その時々の歴史の中で最も喫緊で焦眉の問題にどう答えるかを示す」——それが歴史法則をつかみ「歴史の根本問題に応える」とする共産主義者としての分析力であり、政治任務のはずなのですが、その焦眉の課題から目を背けているのです。
綱領の改定が喫緊の課題となるような瞬間とは、例えば戦後の米国の占領支配とその終結の評価がうまくできず、武力革命につながる「綱領」*1をつくってしまい、国会(衆議院)の議席を35から0にして、党組織も壊滅的な打撃を受けた時に、綱領(革命戦略)を根本から見直す必要に迫られたような、そんな場合でしょう。
もし今の党幹部が、「今の議席激減と党勢衰退は、綱領(革命戦略)の誤りに原因がある」と密かに思っているのならここに力を注ぐのもうなずけますが、さすがにそうではありますまい。
「基本的にこれでいいけど、より良いものにする」という以上のことはないはずです。なら「いま急いでやること」ではないでしょう。
百歩譲って、抜本的な組織改革の方針が出て、その上で、あわせて党綱領の改定をしようとしているならまだいいと思いますが、前者をしないまま、後者に熱中しているのでは、本来やるべきことに目を瞑り、優先順位の極めて低いものに資源を集中させているとしか思えません。
はっきり言えば、それは引退間近の誰かさんのレガシーづくりのためだけでしかなく、そのために、全党が付き合わされているだけではないのでしょうか。
不破哲三氏とのプラベートなやりとりを中央決定にする意味は?
志位和夫議長は、綱領改定案の報告の中で、現在の綱領の起草者が不破哲三氏であったことをわざわざ明かした上で、不破氏とのプライベートな会話をれいれいしく持ち出して
私は、今回の綱領一部改定案は、不破前議長も存命ならば歓迎してくれる内容となったと考えるものであります。
などと述べています。
死人に口無し。
死んだ不破氏が、今泣いたか笑ったかわかるわけがありません。不破氏が「 人は死ぬと無となる」という唯物論的信念を繰り返し表明していたことを志位氏は百も承知で、こんな大川隆法のようなことを熱弁しているのです。
綱領は全党で練り上げたもののはずです。
起草者が喜ぼうが悲しもうが、どうでもいいことではありませんか。起草者が泣き喚いても、全党が「ヨシ!」といえばいいのだし、逆に起草者が太鼓判を押しても全党が「あかんわこれは」と言えばダメなのです。
綱領は党幹部の「私物」ではありません。
全党の財産であり、全党が著作者です。私もその一人です。
「私物」だと思うから、こんなどうでもいい「秘話」を紹介して悦に入ることができるのではないでしょうか。
呆れたのは、“嘘じゃない。立会人もいてその議事録まであるんだぜ”と言い訳がましく述べていることです。
この大会で不破さんは中央役員を退任されるということもあり、最後にいろいろな問題を話し合っておきたいと考え、こういう会談をもちました。山口富男社会科学研究所副所長(当時)が同席し、詳細な記録をとってくれました。
「志位は、不破の生前は邪魔されるので何も言えなかったが、不破が死んだ途端に、不破が書いた綱領を自分色に書き換えてしまった」と言われないためなのかもしれません。そう言われたって、いいではないですか。決めるのは全党なんですから。こんなプロセスを書くだけ、「私物」感がいや増すだけです。
別に見たところでそれが何かを証明するのか知りませんが、「詳細な記録」がそんなに共産党にとって大事なものなら、それが捏造したものではないという証明とともに、「しんぶん赤旗」で公表してくれませんか? 密室での協議がどんなものだったか、知的な好奇心としてはぜひ見てみたい気がします。
正直なところ、第29回党大会(前回大会。24年1月)が終わったばかりの伊豆学習会館(大会会場)で、志位氏がわざわざ時間をとって不破氏に会い、「この綱領、ダメな部分がメッチャ入っとるで。変えるべきやわ」と思っていて、不破氏にそれを告げたのなら、なんで今の今まで開かれていた大会(29大会)で言わなかったんですか? それは不破氏に反論されたら、反論できないな〜とビビったからではないのですか?
ちなみに、この記述を見ても、不破氏は志位氏の改定の方向に承認を与えたのかどうかはよくわかりません。不破氏は「私は引退するので、口を出しません。あとは新しい指導部でよくよく考えて決めてください」という趣旨のこと以上を言っていないと思います。
どのみち、私は、個人回想録ではなく共産党の公式決定の中でこのやりとりを読んで*2、私は「スターリンの葬送狂騒曲」を思い出しました。
「不破氏の衣鉢を継ぐのは誰か」という、およそ近代政党とは無縁の、あたかもレーニンやスターリンが死んだ時に「誰が棺を担いだか」「そこにトロツキーはいたのか」「ベリヤはどうか」のような、どうでもいい話なのです。
志位氏が不破氏と何を話したかとか、議事録があるとかないとか、死んだ不破氏も大喜びでげすなとか、そんなこと、大会とは何の関係もないはずです。誰か個人の業績作りとか、「誰かさんは不破の後継者だ」という宣伝には関係しているでしょうが。
この綱領改定案が「旧ソ連流のゆがんだ解釈から全面的に解放」(30大会決議案)すると豪語しながら、やっていることは、旧ソ連そのものというのは、何とも皮肉な話です。
党建設の理論を「低く見る傾向」があるのでは?
再度、党組織の抜本改革に着手しなかった問題に戻ります。
レガシーを作りたいなら、不破指導部のもとでも成功しなかった「党建設・党組織」論を練り上げるべきだったでしょう。新しい方向に挑めるなら、それは勇敢な挑戦であり、たとえ失敗したとしても後世からその勇気を賞賛されたに違いありません。
しかし、そこには挑まず、未来社会がうんぬんという綱領改定案作りにエネルギーを割いてしまったのです。*3
「いや、革命運動には革命的な理論が必要なのだ。だから組織改革の前に綱領改定が必要なのだ」と党幹部は言い訳するかもしれません。
実際大会決議案には
社会発展の法則をとらえた理論なしに党をつくることはできない。
として
いま、全党は、改定綱領(案)という、党建設をすすめるうえでまったく新しい条件を手にしている。
と書いています。
しかし、ここで市田忠義副委員長にご登場願いましょう。
市田氏は、自著『日本共産党の規約と党建設教室』の中でこう述べておられます。
科学的社会主義というと、哲学や経済学、歴史、未来社会論、あるいは綱領が中心で、党建設の理論を低く見る傾向がありますが、党建設の理論と実践は、科学的社会主義の学説のもっとも主要な要の一つをなしています。すなわち、強大な日本共産党をつくりあげることを抜きにしては、科学的社会主義の学説の革命性が失われると言っても過言でないほど、重要な、中心をなす問題です。(市田p.43)
この見地は、不破氏も重視してきたところで、
科学的社会主義の理論とは、何よりもまず、変革の立場で世界を認識し、考察する立場です。ですから、その理論では、哲学、経済学、社会主義論などとならんで、革命論(階級闘争の戦略・戦術)が、全体の一つの柱をなす重要な構成部分となっています。(不破『マルクス、エンゲルス革命論研究』p.8)
革命論はマルクス、エンゲルスの理論全体の要(不破『古典教室 第3巻』p.10)
と繰り返し述べています。
結局今の党幹部の中に「党建設の理論を低く見る傾向」が抜き難くあるのではないかと思います。
私は時々この比喩を使いますが、哲学、経済学、社会主義論はいわば自然科学では物理学といった基礎科学のようなもので、例えば太陽からは熱や光の形でエネルギーが地球に与えられていることを解明するものにあたるでしょう。これに対し、党建設や組織論などは工学のような応用科学にあたるもので、そうしたエネルギーを実際にどうやったら汲み出せるのかを生み出す技術的な科学です。
どちらも科学的な視点がないとうまくいきません。
「原子の一つ一つには、巨大な爆弾に匹敵するエネルギーがあるんだ!」と1000000回繰り返したところで、それを取り出す技術がなければ何の意味もないのと同じです。
今求められているのは、そのような組織改革の方向性と、それを実現する段取りをつけることです。それを明らかにすることが、共産主義政党の幹部の使命ではないでしょうか。
そのことを踏まえた上でですが、今回綱領の一部改定案については、これ自体は改善点が多くあると思います。
ただし、中心となっている社会主義・共産主義の記述の部分は、後で述べ゙るように、微妙に悪くなっていると思います。
そして大事なことなので明記しておきます。
仮にこのまま採択されたとしても、私が裁判に勝って党に戻った時、この改定綱領に従って党活動を行います。全体として微妙に悪くなっているのですが、「とてもこんな綱領を認めるわけにはいかない」というほどのものではないからです。自分の考えと合わない部分があっても、それは留保して「綱領を認める」ことは変わりありません。(この点では、2004年綱領に対し、組織のトップでありながら、実はかなりの期間、不確信を抱いていた志位氏が、それを押し殺して活動していた姿勢に学びたいと思います。)
本文は以上です。
決議案の問題点は別の機会に書きます。

私が綱領改定案の中で問題だと感じたこと
さて綱領改定案の中で、私が問題だと感じたことを書いておきます。
いろいろありますが、一つだけ。
それは大幅に書き換えられた、社会主義・共産主義の部分です。
今の綱領では、生産手段の社会化によって生まれる「効能」が3点書かれています((一六)の3〜5段落)。
私はこの部分を使って「社会主義になったらどうなるの? どんないいことがあるの」という疑問に答え、経済では引き続き利潤追求はするが、それが目的ではなくなり、社会のために経済を使うようになると総括的に述べた上で、次の3点をそこから抜粋し、それをわかりやすい形にして答えていました。
- 「すべての人間の生活を向上させ、社会から貧困をなくす」→すべての国民に「健康で文化的な最低限度の生活」を保障する。
- 「労働時間の抜本的な短縮を可能にし、社会のすべての構成員の人間的発達を保障する土台をつくりだす」→時短が進み、自由時間が増え、いろんな才能が開花する。
- 「環境破壊や社会的格差の拡大などへの有効な規制を可能にする」→経済の規制やコントロールで気候危機などの環境破壊を食い止められる。
ところが改定案では
生産手段の社会化によって、人間は、搾取から自由になり、貧困や格差から自由になり、労働は本来の人間的性格を回復する。経済の計画的な運営が可能となり、くりかえしの不況や恐慌から自由になり、環境破壊から自由になる。
という大変抽象的な書き方に変えられてしまっています。
もちろん、中身がなくなってしまったわけではありません。しかし、「貧困や格差から自由になり」というような言い方は、あまりにも先の、あまりにも抽象的な響きで聞こえないでしょうか?
綱領改定の志位報告を読むとわかりますが、全てを「自由」からとらえるように書き直し、その中でも時短が生み出す自由時間によって人間の全面発達が行われることを、社会主義の目的の中心に据えるべきだという位置付けをしなおしたためにこのような書き換えが行われることになったです。とにかく「自由」。社会主義について書いている16章では6つしかなかった「自由」という言葉が、16個に3倍増!! 大サービスですね。
経済が利潤第一でなく国民の生活や社会のために役立つようにコントロールできる段階を「必然性の国(段階)」として、これはまだ本来の社会主義ではないと考えるわけです。そして、それが実現して、時短が飛躍的に進むと、自由時間の増大による人間の全面発達によって人間と社会が解放され根本的な自由が得られるとするのを「真の自由の国(段階)」として社会主義の中心目的に位置付けようとした結果なわけです。*4
私は、この方向自体は間違いとは思いません。
しかし、多くの国民は、まず「必然性の国(段階)」を待ち望んでいるのです。
つまり、「生活を向上させ健康で文化的な最低限度の生活を誰でもできるようにしてほしい」「気候危機やAIの危険を経済の規制でコントロールしてほしい」というわけです。もちろん時短はその中の一つです。
まず暮らしを何とかしてくれ、経済を良くしてくれ、ということです。貧困をなくしてほしい。人間らしい暮らしをさせてほしい、ということです。
アメリカで躍進する民主的社会主義の大義も含め、物価高騰や巨大テックの横暴に苦しむ多くの人たちは、そこに社会主義の希望を見出しているのではないでしょうか?
斎藤幸平氏が『人新世の「黙示録」』を出して、「コモン」を軸にしたコミュニズムの理想を掲げるのを棚上げして、「暗黒社会主義」の名の下に「エコロジー独裁」での「計画経済」を強調し出したこと、あるいは共産党系の理論家である友寄英隆氏が『日本経済 再生への道 「新自由主義」から脱却する「経済計画」』を近著で出し、「経済計画」を強調しているのは、このような国民の要求に沿ったものだと言えます。
ところが、志位氏が主導した綱領改定案は、逆にそこから遠ざかった社会主義の強調になってしまったのです。
もちろん、先ほど述べたように、それが「間違い」とまでは言いません。なので反対するまではしませんが、どうも逆だな、良くなったか悪くなったかといえば悪くなったかな、国民の要望や気持ちに沿っていないな、と思うしかありませんでした。
*1:現在の共産党は公式にはこれを綱領と認めていないのですが。
*2:組織の中央決定ではなく、個人の回顧録や個人の著作でそういう思い出披露とか遊びや比喩表現をするのは全く構わないと思います。
*3:組織改革だけの話ではありません。当面の政治方針にしても失望された人は少なくないでしょう。立憲民主と中道改革がガタガタとなり、 れいわも崩壊する中で、左派・リベラルの変わらぬ旗手として共産党の役割を光らせることができるはずですが、(綱領改定案ではなく)「決議案」の方は、野党を再結集するような方向性も、共産党自体が浮かび上がる方向性も見出せないものになっています。まあこの問題はここでは論じません。
*4:志位氏は現行の部分を否定するために「『生産手段の社会化』を前提として、そこから社会と人間の変化が演繹的に導かれるという叙述になっています」と説明しているのですが、率直に言って何を言っているのかよくわからない部分です。生産手段の社会化をしたらそれをもとに人間が変わるのは当たり前ではないでしょうか。そういう変化を「演繹的」とは言いません。逆に全てを「自由」の原則で無理に説明しようとして何でもかんでも「自由」に結びつけてしまうようなやり方こそ「演繹的」というのではないでしょうか。














