相当に唐突ですが、だんだん紙のビラを撒くということも減りつつある中で、「ビラづくり」について私が思っていることを書きたいと思います。
ひょっとしたら10年後にはもう紙のビラなんてなくなっているかもしれませんけど、10年ぐらいはあるんじゃないかと思うからです。私はビラ書きを長いことやってきました。そのノウハウをできれば書き残しておきたいと思い、いつまで続くかわかりませんが、ちょくちょくこのブログで書いておきたいと思います。読みたい人だけが読んでください。
ビラづくりの三要素
細かい議論に入る前に、常々私が考えているビラづくりの際に考えるべき3つの要素についてまずは書いておきます。
ビラづくりで何を優先すべきなんでしょうか。
私は次の3要素を常々意識しています。
それは、
- 政治性(鋭さ)
- 芸術性(デザイン)
- 民主性(決裁・合意)
の3つです。
政治性——科学性あるいは政治的な鋭さ、今組織として何を押し出すのか
「政治性」というのは政治的な鋭さということです。これは共産党の決定がとりあえず「正しい」という前提になります。*1政治的に何を押し出すかということを一番正確にとらえているということです。今だとさしずめ「今度の総選挙で野党連合政権による政権交代を」ということでしょう。それが本当に有権者にウケているかどうか、そういうことは別です。組織としてこれを押し出すべきだと考えたことがビラに忠実に出ているかどうかということです。
デザインがどんなに悪いビラでも、食い入るように読まれるビラがあります。人々の関心がそこにあるからです。例えば、手書きのクソ汚いビラであっても、「今の職場の課長のパワハラはおかしい」というビラを作ったとしましょう。むちゃくちゃ読まれます。それが政治的な焦点だからです。それがまさに政治的な鋭さです。
芸術性——見栄えのよくないビラはゴミ箱直行だ
「芸術性」というのは要はデザインのことです。政治性が優れていても、めちゃくちゃなデザインならゴミ箱に直行します。また、ある程度デザインができていても、「自分の文化圏と違うな」と思われたら共感を寄せてもらえません。ダサいデザイン、泥臭いデザインを嫌がる層もいれば、妙に小洒落たデザインを嫌がる層もいます。あるいは、単純に例えばイラストが大きく入っていればじっと見入ってしまう人もいます。写真よりもある種のイラストの方がいいという層もいます。例えば、下記の図1と図2がビラに大きく入っていたとして、あなたはどちらのビラを見入ってしまいますか?
私は図2に見入ってしまういます。図1なんか、あまりにも世の中にありふれているでしょう?(写真がないよりはましですが。)結局それは誰をターゲットにするかということです。
オタク的な感性のある人に向けるなら図2のようなイラストを使った方がいいですし、そうでない人には図1の方がいいでしょう。
あとで述べますが、例えば最近は手書きのビラの方に見入ってしまいます。1990年代くらいまではきちんとした活字のビラは貴重でしたが、今やPCやワープロの普及で、そんなものは辟易するほどに見ています。しっかりした活字・DTP体裁のビラはむしろ食傷気味なのです。
ビラのデザインは、ここではあまり論じません。
結構いろんな本が出ているのでそれを見てもらった方が多分参考になると思います。
民主性——誰に決裁をもらうのか、誰の合意を調達するのか
「民主性」というのは、要はそのビラが誰の決裁を得るのか、あるいは誰の合意を得るのか、ということです。いくらいいビラでも、例えば候補者が納得しないと日の目を見ません。逆に「えー、こんなビラがいいの?」と制作者の私がいくら思っても、候補者や依頼した団体が「これはいい!」と思っているビラは、本当に真剣に撒きます。そして一生懸命活用します。
私は、候補者からビラを、フォントからイラストに至るまで一字一句、細かく、しかも何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も修正された、という経験が無数にあります。出来上がったビラは私から見て「は?」というようなものでしたが、候補者や地元の組織はものすごい喜びようで、それを本当に頑張って撒いて、支持拡大でも活用していました。私にはわからない事情があるんだなと思うしかありませんでした。実際そうなんです。私のような地元外の者が、ポッとそこに来てビラを作って、何が分かっているというのでしょう。何も分かっていないのです。私はただ、候補者や地元組織の「手」の代わりになってビラを作ったに過ぎません。「自分(私=神谷)のビラの方が絶対にいい」などという傲慢な思い上がりは許されないのです。
他方で、候補者にはこだわりがない場合があります。
そこで地元の組織、撒く人からそっぽを向かれては困るので、その人たちの意見を聞くことがあります。その時に、なんの責任もない人の意見を聞いてそれにとらわれてしまうことは、今度は逆の過ちを犯してしまう場合があり、それは気をつけないといけません。現場の、ある1人か2人かの、こだわりの強すぎるおじいさん・おばあさんの意見を絶対に聞かねばならないという理由はありません。それを取り入れたとしても、いいビラになる保証はないのです。
あるいは、これはよく一般の企業などにもあることですが、いくら制作現場が「いいビラができた」と思っても、上司などの決裁者が「ダメだな」と思っていればそのビラは通りません。通らなければビラとして完成できないのです。
決裁者がキーワードにしていることをきちんと踏まえていれば、ビラは決裁を得られます。
私は自分が起案したビラがなぜいいのかを説明します。そして決裁者に掛け合います。しかし、決裁者が納得しないことがあります。その場合、組織人である以上、決裁者が責任を持つわけですから、ただの制作者である自分が意地を張ってゴネるのはよくありません。責任がないわけですから。だから2〜3回押し問答して決裁者の意見が変えられないようなら、それに従うしかないのです。
センスの悪い決裁者(上司)というのは存在しますが、そういう人でも従わざるを得ません。そういうクズな決裁者に不満なら、例えば組織内の会議で厳しく批判したり、組織内の選挙で落としたりすべきなのです。でもそれは別のプロセスの話です。
3要素の何を優先すべきか
さて、この3要素をバランスよく配置したビラがベストなわけですが、時々矛盾する場合が出てきます。例えば、デザインはいいけど、政治性がないようなビラがあります。あるいは、候補者は地元のドブ板実績を宣伝したいけど、組織としては政治的な中心点を押し出すべきだと思っているような場合です。
その中で3要素のどれを優先すべきなのでしょうか。
私は圧倒的に「政治性」です。
どんなにデザインが優れていても、あるいは現場や候補者がこれでいきたいと思っていても、組織が決定した政治性こそ最優先されるべきなのです。決定が真理の検証であるという立場を貫くなら、まず政治的に何を押し出すべきかが最重視され、それが正しかったかどうかを図るべきでしょう。
いくらデザインが良くても、あるいは候補者が「これでいきたい」と思っていても、集団で決めた「政治性」に反していたり、それを無視していたりしたら、政治組織としては責任が持てません。「芸術性」「民主性」は「政治性」に従属すべきです。
上司がクソで明らかに政治性・芸術性がダメな場合があるんですが、起案者としては政治性を優先させるべきでしょう。それで否定されたら、従うしかないのですが。