故中曽根康弘氏への弔意表明の強制について

 今日、共産党福岡市議団は、故中曽根康弘氏への弔意表明を子ども・市民・市職員などに強制しないよう申し入れました。

f:id:kamiyakenkyujo:20201016160441j:plain

 そして私個人も市教育委員会と子どもが通う学校の校長先生に同様の請願をしました。

 

 弔意(人の死をいたみとむらう心)を持つかどうか。人間が死ねば誰でも弔うと考えるか、中曽根康弘という政治家を評価してその「業績」を批判し弔意を拒否するか——それは一人一人の内心の自由に深くかかわっています。

 例えば、中曽根内閣による国鉄分割・民営化によって労働組合による差別が持ち込まれ、雇用を失い、人生を狂わされた人たちにとって、単純にその死を弔えるものでしょうか。

 そして、弔意を抱いたこと、または抱かなかったこと、その表明の仕方は表現の自由に関わってきます。

 どちらも日本国憲法が保障する精神的自由の根幹に関わることであって、政府が簡単に踏み込んでいいものではありません。

 

 それでも、政府や自治体が国民・市民に対して誰かの死にへの弔意とその表明を「求める(お願いする)」ことは絶対にないわけではないでしょう。それは認めます。

 しかし、中曽根康弘氏への弔意を子どもたちに求めていいものでしょうか。

 中曽根康弘氏は、現職の総理大臣ではありません。現職の総理だから問題ないとは思いませんが、少なくとも彼はそうではありませんでした。中曽根氏は「元首相」ではありますが、それを辞めてからは、いわば「自民党の政治家」にすぎません。自民党の政治家に対して、学校が子どもに弔意表明をさせるのはおかしいのではないでしょうか。

 教育基本法第14条2項は、

法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。

と定めています。自民党の政治家への弔意表明はまさに「特定の政党を支持」するものだと思います。

 「君が代・日の丸」を子どもに押し付けることに私は反対ですが、少なくともそれは「学習指導要領」に書かれていて貧弱ながら「根拠」を持っています。*1

 しかし、自民党の政治家への弔意表明を学校が求める根拠はどこにもありません。子どもが拒否するか受け入れるかにかかわりなく、「求める」行為自体をやってはいけないものです。

 弔旗の掲揚も同じです。

 結局「学校の行為」としてやっているわけですから、子どもや地域住民にそれを押し付けているわけです。

 また、「命令や指示ではなく、あくまで求める=お願いだからいいではないか」という理屈もありますが、私はそうは思いません。なぜなら学校当局や教師たちのような「権威」が子どもに黙祷を「求めれば」、事実上の強制になってしまうのは明らかだからです。

 

 事情もよくわからない子どもたちが生活する学校現場にまで、菅政権は弔意表明をなぜ押し付けるのでしょうか。出来るだけ無理に土足で子どもの心に踏み込んで、子どもの心をできる限り支配しておきたいのでしょうか。そういう非合理な振る舞いとしか説明ができません。教育上の意義が1グラムも感じられない、逆に負の影響しか考えられない措置です。

 

 明日17日に自民党・内閣の合同葬があり、午後2時過ぎに黙祷などが強要される可能性があります。明日は土曜日なので普通は学校がないのですが、なんとうちの子どもの学校では土曜授業があります。

 弔旗が掲げられているかもしれません。

 午前中に黙祷が「求められる」かもしれません。

 あるいは午後の部活動で先生が中断して黙祷を「求める」かもしれません。

 そんなことにならないようにしたいと思っています。

 

追記(2020年10月17日午後8時20分)

 共産党市議団として観測した学校、私の子どもが通う学校では弔旗掲揚や黙祷呼びかけなどはなかったようです。ただし、市庁舎には弔旗(半旗)が掲げられていました。

*1:もちろん指導要領は絶対に従わなければならないものではなく、あくまで大綱的、つまり大ざっぱなところで沿っていればいい、というほどのものです。