今日付の「しんぶん赤旗」の党活動ページには「座談会『要求運動・「車の両輪」オンライン交流会で学んだこと」が載っています。台風の影響で紙面を公開しているので直接読めます。
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik23/2023-08-08/20230808-006.pdf
「住民の中の要求運動に取り組む」ということは、日本共産党が民主主義革命をめざしている政党であることと、どのような関係にあるのでしょうか。また、それが日本共産党そのものを大きくすることとどう関係しているのでしょうか。
日本共産党は今の日本社会を資本主義の深刻な矛盾にあるととらえるとともに、大企業・財界の利益を最優先するような政治や社会のゆがみ、アメリカに国家的に従属することで戦争にまきこまれる危険という二つの深刻な病理があると認識しています。
そうした二つのゆがみの中で生きている国民の多くは、(本人が主観的にはどの思い、どのような党派を支持していようが、)客観的にはその二つのゆがみを根源とした、さまざまな政治・社会上の要求を持たざるをえない、と考えています。
例えば、大企業が内部留保を巨大にため込む一方で、労働者の賃金が上がらず、特に非正規労働者の最低賃金は「健康で文化的な最低限度の生活」を営めないほど低い。賃金を上げてもらってまともな生活がしたいな、という要求がそこには生じます(下記は田村貴昭衆院議員の質問パネルより)。
あるいは、大企業の巨大なもうけにふさわしい負担・税金を、今の自民・公明政権は課しません。そうした中で教育へ回す予算は少なく、教育への公的支出は先進国の中でも異様に低くなり、大学の無償化は一向に行われないことになります。そのために、数百万円の借金を負わせて大学を卒業する——などという教育が当たり前のように行われています。「借金返済に追われる人生は嫌だ」「子育てにお金がかからないようにしてほしい」という要求がそこに生まれます。
ジェンダーについても、企業の中で男女の賃金格差は大きく、非正規・低賃金は際立っています。こうした中で女性は「二級労働力」として扱われ、それがハラスメントなどの大もとにあります。ハラスメントに泣き、そんなことがないような会社にしてほしいという要求が生まれます。
「ええええ…そんな現象と本質を関連づける説明はちょっとおかしいのでは…」と思うかもしれませんが、まあとにかく国民の多くの苦難として現象していることの根っこには、「二つのゆがみ」があるのだ、と共産党は考えているわけです。
だから、国民・住民の小さな要求の運動を、共産党員が、たとえば住民運動団体の中に入って、もしくは自分たちで運動団体を作って、それで一つひとつ解決していこうとするのは、「当面する国民的な苦難を解決」(共産党綱領)するものであるのと同時に、そうした運動を通じて、「国民大多数の根本的な利益にこたえる独立・民主・平和の日本に道を開く」(同前)ことになるからです。一つひとつの要求運動が、やがて大もとにある政治の変革に進んでいくと考えるわけです。
その過程で、例えば「奨学金の借金を帳消しにしよう」という運動団体が、教育の無償化を掲げ、その財源として、大企業・富裕層への応分の負担を求めるような改革案を出すところまで進むとしましょう。そうした様々な要求を持ったいろんな階層の団体が集まって、立場の違いを超えて共同した政治改革の流れをつくるという見通しを共産党は持っています。これを統一戦線と呼んでいます。
民主主義的な変革は、労働者、勤労市民、農漁民、中小企業家、知識人、女性、青年、学生など、独立、民主主義、平和、生活向上を求めるすべての人びとを結集した統一戦線によって、実現される。(共産党綱領)
だからこそ共産党は、目の前の国民の苦難を軽減・解決する要求運動を重視してきました。それはやがて社会・政治の大きな変革へとつながると思うからです。
そして何よりも、そのプロセスで「人とつながる」ということが楽しいのですね。
目の前の要求のことで集まる。例えば教育の無償化。
みんなで集まって、お茶を飲んだり食事をしたりしながら、自分の状況を話したりします。そうするとお互いの状況などもわかって「ああ、自分の家だけじゃないんだな」と思ったり「自分は深刻だと思っていたけど、もっと大変な人もいるんだ」とかわかったりします。
全然関係のない相手の人生や考えも知れます。
それをみんなで勉強します。「教育」というものが自分でお金をかけるものだ、借金をしてナンボだとか、日本では当たり前だと思っていたことが世界で見ると異様だったり、狭かった世界が広がったような気がします。
行政とも交渉します。いろんな党の議員にもお願いします。その結果で、あの議員さんは頼りになるねとか、あの党はひどかったねとか話題になります。
そういうプロセスそのものが楽しすぎるのです。
楽しくて、面白いと思う活動だから、ちょっと知り合いにも声をかけようか、とか、あの人にも協力してもらおうかとなり、「つながる」こと自体が快楽になります。
いやもう本当に楽しいわけですよね。
こうした中で、共産党員であれば、教育費の負担を軽減するというだけでなく、その大もとにある政治を変えようと思うわけです。そう思えば、共産党に大きくなってもらうのがいいんじゃないですかねという話になって、知り合った人を共産党に誘ったり、機関紙(赤旗)を読んでみませんか、と言ったりします。
戦後、特に1960年代、70年代に共産党は、こうした要求運動、つまり国民のたたかいが広がる中で組織を大きくしてきました。日本共産党はこのように要求運動そのものを大きく広げるし、その中で組織を建設し拡大していくやり方を「車の両輪の党活動」(昔は「二本足の党活動」)と呼んできました。その頃の党員の手記や回顧録を読む機会がありますが、やはり少なからぬ人が、そうした運動の楽しさ、「人とつながる楽しみ」に惹かれて共産党の活動に熱中しています。ぼく自身もその一人です。
これらの層・団体・運動は、高度経済成長期においてますます膨大な数へと成長するとともに、高度成長によってさまざまな矛盾がしわ寄せされる部分でもあった(過剰な搾取、低賃金、失業、公害、家賃の値上げ、都市型の疎外と貧困、等々)。そこでは、戦後の新しい平和主義と民主主義的な集団的文化への欲求やさまざまな生活要求が渦巻いていた。共産党は、各地域にくまなく生活相談所を設置して、一見政治的に見えないさまざまな生活上の悩み(子育てから借金の返済に至るまで)に取り組んだり、地方議員・国会議員の個人後援会活動(選挙だけでなく、レクレーションや情勢学習会なども)を通じて地域密着型の活動を展開した。そして、これらの領域は民間大企業と違って、相対的に資本の支配から自由な領域だった。欧米の社会民主党系ないし共産党系の労働運動の中心が民間大企業の労働組合であったのに対し、日本の共産党はそこから排除され、周辺化されたことで、別の社会的基盤を探し求め、その新しい基盤に適合した組織形態へと進化を遂げ、それが高度経済成長期において大きな利点となったのである。(森田成也「日本共産党史における3つの歴史的ポイントと今日的課題」/有田・森田・木下・梶原『日本共産党100年 理論と体験からの分析』所収、かもがわ出版、pp.57-58)
60年代、70年代のこうした高度成長のもとでの矛盾を反映した要求運動による結集に加え、そのように結集してきた人々を、さらに独自の文化(その中には党の組織建設すら含まれている)に巻き込んで、一つの大きな文化的公共圏へと共産党が組織していったことに注目する人もいます。
メディア研究者佐藤卓巳は、ドイツ社会民主党が20世紀初頭に100万人の党員を擁するに至ったのは、19世紀を通じて発達した新聞・雑誌メディアを積極的に活用し、市民的公共圏に対抗する労働者的公共圏をつくりあげたことにあるとしている。宮本〔顕治指導下の共産党の〕路線もまた、高度経済成長期に大衆化した文化産業を自前の興行力を育成することで、大衆社会状況における独自の公共圏の構築に成功したのである。機関紙「赤旗」の数百万部にのぼる大衆新聞化と宅配制度の確立、ほぼすべての分野を網羅した文化事業、数十万単位の党員、支持者が集う「赤旗まつり」は有機的に結合し、党員、支持者の日常世界を包摂し、「国家のなかの国家」がつくりあげられた。日本共産党は、日本の左翼・社会主義勢力のなかで唯一、自前の興行力を有する大衆的文化戦線をもつことができた勢力であり、この文化戦線こそが1960年代末から70年代初頭にかけての日本共産党の議会における躍進を支えたのである。(木下ちがや「戦後日本共産党はいかに創られたか」/前掲書所収pp.114-115)
本日付の「赤旗」の座談会では、そうした要求運動・議員の活動・組織建設を一体のものにしていこうという原点に注目しています。これは日本共産党という組織が今からよみがえっていく上で、原点ではありますが、本当に大事な点だと思っています。
なによりも自分自身の「人とつながる楽しさ」「世界が広がる楽しさ」が真ん中にあります。そこを軸に、ある意味で自然な形でまわりの人を巻き込んで無理なく運動を広げ、組織を大きくしていくわけです。
もちろん、それは、昔ながらのやり方をそのままやっていてもダメなわけで、今日的に新しい探求が必要になりますし、思い切った資源の配分も必要になります。それをどうしたらいいのか、そこに今活動の力を割くべきなんだろうと私は考えています。
「そんなのは自然成長性への拝跪(意識的な党勢拡大運動をサボる口実)だ」とか「要求運動なんかいっぱいやっているけど、そんなことをしても党建設は進まない」とか「目標と期日どおりでなければ意味がない」とかそういう意見もあるでしょう。
それは一理あります。
一理あるんだけど、やっぱり大事なことは人とつながる楽しさが実感できるという核心。
その核心が失われるような活動では続かないだろうなと思います。
楽しくないことは持続できない。長期的に見て担い手も広がらない。