日本共産党の志位和夫議長が国会議員団と事務局を相手に『資本論』の講義をやっていました。
ちなみに「『Q&A資本論』(赤本)をまとめるさいに心がけたこと」って動画タイトル、本の題名の略し方がおかしいですよね。『Q&A いま『資本論』がおもしろい』なのに。
私は講義の中身を聞いて「どうして『Q&A いま『資本論』がおもしろい』を動画で見るor読み合わせをする、ということをしないのかな」と率直に思いました。
そのためにわかりやすい本にまとめたのではないのでしょうか。「赤本よりももう少し踏み込んで話す」と言っていますが、そこまで踏み込んでいるようにも思えません。
そうでないなら、「『資本論』第一部を読む誘い水になることを願ってつくった」とこの講義で志位氏自身が述べているんですから、『資本論』そのものを読み始めたらいいのに、と思いました。
講義の終わりに志位氏は赤本・青本(『Q&A共産主義と自由』)と大会決定の関係を述べています。これは(個人の趣味の押し付けではなく)大会決定に基づくものだ、という説明をしています。あるいは、そこで「青本は搾取論の説明をしていないのに『搾取によって奪われているもの』を語っているのは飛躍ではないか」という疑問に対して「論理の飛躍と言われれば飛躍」だと認め、講演の性格上しかたがなかった、「どうかお許しを願いたい」と謝っています。青本では語れなかった搾取論を補うために赤本を作ったのだ、という「関係」を述べています。
個人的な趣味でやっているんじゃないか、なんで似たような講義を何回もやって全党に読ませているのか、論理が飛躍してるんじゃないか……そういう疑問が(国会議員周辺から)出ているので、今回の国会議員団+事務局での講義になったのかなとぼんやりと邪推してしまいました。
私なら国会議員団にどう語るか
とはいえ、講義全体は、基本的に赤本そのものの中身のように思いました。多少の「踏み込み」はあったにせよ。
これ(赤本)で全党に徹底しろ、『資本論』を読むムーブメントを起こせ、と言っているものですから、赤本に何か足す必要はないでしょう。赤本を読み合わせすればいいじゃないですか。それで、赤本で足りないと思ったら、もう『資本論』を読めばいいはずです。なんで志位氏がまた出てきて何かをしゃべっているのか、皆目わかりませんでした。
「わかりやすい入門テキストを作りました!」という触れ込みなのに、その入門テキストを解説する講演会を繰り返している、という文化って本当におかしいと思うんですよね。「入門の入門」とか「入門の解説」とかって変じゃないですか?
あるいは、いつまでたっても「入門」からその奥に入っていかない、『資本論』本体を読んでいかないというのはどうしてなんだろうと思います。
志位氏は、せっかく国会議員団、つまり議会内で闘争する党員集団に話をするなら、その人たちに向けた新たな講義をすればいいのにと思います。
志位氏は、建設労働者や教員向けに講演をやっています。その中身が成功しているかどうかはともかくとして、そういうタイプの講義をなぜしなかったのでしょうか。不思議です。
そこで、「もし私が共産党の国会議員団と事務局に資本論の講義をするとしたらどうするか」を考えてみました。
二つ柱があると思います。
一つは、公的な報告書や議会議事録と格闘するマルクスを楽しむこと。
もう一つは、「社会主義のパーツ」を作るつもりで議会質問を考えること。
この二つです。
第一の柱:公的な報告書と格闘するマルクスを楽しむ
一つの柱はネタですが、『資本論』第一部には、公的な報告書がふんだんに使われていて、現在の国会議員団や事務局と同じ格闘をマルクスがしているということです。そこを味わう楽しみ方をしてほしいと思います。
有名なところでは、第1部第8章の「工場監督官報告書」「児童労働委員会報告書」です。長時間労働や児童労働、過密労働などの告発をこれでもかと引用をしています。
同じ第8章では『製パン職人によって申し立てられた苦情にかんする…報告書』とか『公衆衛生、第三次報告書』などというのもあります。
「工場監督官報告書」「児童労働委員会報告書」は機械制大工業のもとでの労働者への影響を書いた第13章でも頻繁に使われます。
これを読んだ議員や事務局(秘書)が、「『資本論』ってこんなに行政文書ばっかり読んでるんだ…! マルクスも私と同じじゃん」という気持ちになってもらえるんじゃないでしょうか。
『資本論』は他の箇所でも、政府の青書、統計、そして議会での演説などがたくさん使われます。
第23章で当時のイギリスの大臣だったグラッドストンの演説を使っています。経済が繁栄しても労働者階級の貧困はほとんど改善せず、逆に途方もないほど資本家階級の側に富が蓄積することを述べています。
ところが、このグラッドストンの議会発言の「引用」が、ドイツの工場主連盟の機関誌で匿名の筆者から「カール・マルクスはどのように引用するか」という一文によって激しく攻撃されることになります。

マルクスが偽って原文にない一文を付け加えた、というイチャモンをつけるのです。マルクスはこれに対して反撃を挑み、大論争に発展していきます。
この事件の顛末は、実は『資本論』のエンゲルスの序文の中にくわしく、そして面白おかしく掲載されています(「第四版へ」という序文。新日本版の『新版 資本論』では第1分冊のp.54〜62)。
SNSでの論争をからかうネット記事を読んでいるかのような、エンゲルス流の抱腹絶倒の筆致が光る、実に楽しい一文です。
与党や他の野党、あるいはそれらとつながりのあるネット論客とか匿名アカから、議会質問をめぐってこんな攻撃されるよなあ…と共産党の議員あるいは議員団事務局に身をおいたものなら「我が事」のように読めるんじゃないかと思います。
このように、『資本論』がまさに生きた政治の素材の渉猟によって成り立っており、その政治的な格闘との表現として『資本論』があることを知ってもらいたいと思います。

第二の柱:議会質問は「社会主義のパーツ」を作っているつもりで
もう一つの柱は、こちらが言いたいことの本体ですが、社会主義が現在と「地続き」であること、「新社会の形成要素」が今の資本主義社会の中で生まれつつあることを意識して議会活動をすることを『資本論』から学んでほしい、ということです。
議員や議員団事務局は、目の前の国民・住民の要求や、単に狭い政策上の整合性で議会質問を考えてしまうことがあります。例えば子どもの医療費無料化です。
地方議員の中には、保護者の経済負担が苦しいという直接の要求を聞いて、反射的に「子どもの医療費無料化の充実」という質問を作るという人がいます。
もちろんそれは国民の苦難軽減を立党の精神とする共産党議員としては大事なことです。
しかし、共産党の議員としてはそれだけでは十分とは言えないのではないでしょうか。
「子どもの医療費無料化の充実」というのが目の前の困った住民を救うという角度からだけでなく、自分の質問や政策が社会主義のどういうパーツを作るのか、を意識しながら作ることが必要になります。
日本共産党の綱領では、社会主義のメルクマールとなる「生産手段の社会化」によって何がもたらされるかが書かれています。
生産手段の社会化は、人間による人間の搾取を廃止し、すべての人間の生活を向上させ、社会から貧困をなくす
「社会から貧困をなくす」という課題を、単に「搾取分を労働者階級が給料として取り戻し、それで生活が向上し、貧困をなくす」と考えるべきでしょうか。
「社会から貧困をなくす」=全ての国民が健康で文化的な最低限度の生活を送れるようにするという場合、例えば、医療・教育・住宅などが社会保障によって無料or安価に提供される、ということもあり得るはずです。
その場合、医療を無料にするというのはいきなり全ての医療が無料になるのではなく、まず子ども、障害者、ひとり親、高齢者…というふうに範囲が広がっていくことが考えられます。「子どもの医療費無料化」が当初まさに乳幼児だけだったものが、今や18歳まで全て無料になっている自治体が多数になっています。それは、まさしく「社会から貧困をなくす」という社会主義の課題を、資本主義のもとで達成していっているのです。これこそ「社会主義のパーツをつくる」作業に他なりません。
『資本論』では、労働者階級の闘いで労働時間を規制する工場法ができるエピソードが紹介され、それらが新社会の形成要素として紹介されます。
あるいはマルクスは児童労働でさえ、それが新しい時代の教育を開くものだとして注目します。今、児童労働といえば聞くもおぞましいものですが、当時であってもマルクスが先ほどの「児童労働調査委員会報告書」を使いマルクスは児童労働の過酷さを繰り返し告発している「悪」でした。しかしそのような「悪」の中にさえ、マルクスは「これってひょっとして将来の社会主義社会で役に立つものに変わる可能性あるよね?」という目で見ていたのです。
そのように現在は悪だと位置付けられているものであっても、未来社会の観点から見ればそれは未来の萌芽を含んでいる可能性があります。
例えば裁量労働というのは、労働時間の規制を崩す資本家の過酷な搾取の道具として登場してきます。しかし、条件が変わった場合、労働者が自分で自由に時間を設定して働けるようになれるツールに変わる可能性があります。
そのように、現在の狭い条件からだけで議会質問を考えず、絶えず事物の歴史性を考えながら、それがひょっとして社会主義のパーツを用意しているのかもしれないという見地で質問作りや議会対応を考える——そういう見地を『資本論』から学ぶことができるように思います。
そのような見地を学ぶことで、単に「左翼っぽいから」「住民の声だから」というだけで質問を作ってしまうという狭さから抜け出て、共産党の綱領、もっと広くは科学的社会主義の見地から質問を作ることができるようになると思います。
「議会や集金・配達が忙しくて『資本論』なんか読んでいる暇はない」と心の中では思っている地方議員は少なくありません。関係ない、と思っているのです。そのリアルな気持ちに立ち入って講義をすることが求められると思います。一度志位氏は変装して、地方議員団の事務局で働いてみた方がいいと思いますよ。何が必要なのかあまりわかっていないんじゃないかと思います。
とまあ、『資本論』を話すなら、そんな話こそ、国会議員や事務局には、すべきじゃないでしょうかね?
そして何よりも、『資本論』を学ぶことは無駄ではないと思いますが、同時に「党の現状をどうするか」を全党で真剣に考えないといけないのではないかと思います。『資本論』を学んでいる場合ではないという言い方はおかしいと思いますが、「党の現状を根本的にどう見直すか」をせずに『資本論』を学んでいるのはおかしいと思います。