田村智子委員長の理屈は意味不明

 この動画ですが、すでにいろんなところからツッコミが入っています。

 “日本共産党は戦前からソ連の独裁を批判してきた(正確には「国家体制で言えばああいうまさに独裁っていうのは私たちは戦前から、できた時からもう『違う』と」)”というのはあまりにもひどい党史の改ざんです。

 端的に言って「うそ」です。

 このロジックがどうやって成り立つのかは全く不明ですし、田村委員長が語っていない以上我々が勝手に解釈してあげる必要はないですが、あえて言えば“共産党は戦前から天皇絶対の政治に反対し、民主主義革命をめざしてきた。国家体制=政治体制としての民主主義を命懸けで求めてきた。だから当然ソ連のアレには反対していたとみなせる”というものでしょうか。

 もしそうだとすれば、あまりにもバカげた、エクストリーム理論です。

 すでに他の方がおっしゃっているように、ソ連の政治・経済体制を戦前の日本共産党は賛美していたことは戦前の各種の綱領文書からも明らかです。ソ連賛美を明言している以上、上記のようなエクストリーム理論が成り立つ余地は1mmもありません。

日本共産党中央委員会出版局日本共産党綱領文献集』(1996年版)と掲載されている32年テーゼ。100〜500万人の犠牲者(E.H.カー『ロシア革命』)をだしたスターリンによる「富農の一掃」(クラークの絶滅)まで「非常な大成功」と賛美しているのがわかる。

 今の共産党の講師資格試験で公式テキストに入っている不破哲三日本共産党史を語る 上』には次のように書いてあります。

ソ連覇権主義の問題は、私たちの現在の認識であって、当時の私たちは、ソ連スターリンにたいするその種の見方は、一かけらも持っていなかった、ということです。

 レーニンがつくった党で、その後継者であるスターリンが先頭にたち、世界大戦でヒトラー・ドイツを撃破して反ファシズムの戦線を勝利にみちびいた、その時、連合国の一員だったアメリカが反動の側に転じた時に——そのことは、日本の占領政策の変質で、私たちが日々身をもって体験していたことでした——、世界政治の舞台で平和と民主主義の陣営の大黒柱として頑張っている、これが、ソ連にたいする私の当時の見方で、おそらくこの点は、日本の共産党員の多くが共有していた見方だった、と思います。(不破前掲p.190)

全体としてスターリンへの信頼は絶大で、こういう人物が間違うはずはない、と本気で思っていたものです。(不破前掲p.191)

 ソ連・中国の干渉によって起きた党を分裂させ崩壊させた「50年問題」を契機に批判的な目が育ち始め、やがてソ連・中国との覇権主義との闘争を経て身をもって批判的な視線を獲得する、というのが現在の公式の党史における史観であって、田村委員長がもし「党史」の講師資格試験を受けたら落ちるんじゃないでしょうか。

 

 ただ、わかりやすく言おうとして「多少」不正確なことを言ってしまうのは、恕する気持ちがないわけでもありません。私もよくやるので。そして、その正確さが犠牲にしてわかってもらうことがプラスになることもあるのも事実です。

 問題は、それによって「わかりやすくなるかどうか」ですね。

 「戦前からソ連を批判してきた」というのは「わかりやすく」はなっていますが、うそなのですぐにバレてしまいます。それよりも「昔は賛美していたが、壮絶な体験を経て批判的に考えるようになった」という体験談の方がリアルだし、もっと「わかりやすい」と思います。そのわかりやすさを捨てて、なぜこんなすぐにバレてしまうだらしのないうそに飛び付いたのでしょうか。

「海の正倉院」と言われる沖ノ島にある機織り機のフィギュア。精巧で驚きます。



 

共産主義は経済システムの話であって国家体制の話ではない」?

 そして、私は今日問題にしたいのは、実はそのことではありません。

 田村委員長がこの動画で言っている「共産主義は経済システムの話であって、国家体制とは別の話」という「理屈」です。

 これは本当に謎です

 一体何が言いたいのかさっぱりわかりません。

 この「理屈」をいろんな角度から批判できますが、まず何よりも「何が言いたいのかわからない」ということが致命的です。

 「共産主義というとソ連や中国を思い起こしてしまう」という小学生の疑問に対して「共産主義は経済システムの話であって、国家体制とは別の話」って一体どういう切り返しなのでしょうか。

 

 ここでも田村委員長はロジックを説明していません。だから最初から説明不足なのです。こちらから「たぶん…という意味かな」というふうに忖度して解釈してあげたいけど、それすらできない、全く意味不明のロジックです。

 田村委員長はこのロジックがお気に入りで、各種のロングインタビューの随所で使っています。

 

 youtu.be

(48分30秒ごろ) 

 

 youtu.be

(29分50秒ごろ)

 

 そして本人はこれが対談の成功体験だと考えている節があるようですね。「とてつもなくうまく説明した!」とお思いになっているようなのです。だって何度も繰り返していますしね。

 

 こう書くとエクストリーム擁護者が出てきて「そんなの…という意味に決まってるじゃん」と言うかもしれませんが、まあせいぜいやってみてほしいですね。何よりも田村氏自身にきちんとわかるように説明してほしいと思っています。

 

 なお、「共産主義は経済システムの話」というのは、あえて考えてみると、最近の志位和夫議長の著書『Q&A 共産主義と自由』(青本)だと思います。

 冒頭に民青の中山歩美副委員長と次のようなやりとりをしています。

https://www.jcp.or.jp/akahata/aik24/2024-05-12/2024051204_01_0.html

 中山 「資本主義」や「社会主義共産主義」という言葉はよく聞くのですが、これは経済の話なのでしょうか。「民主主義」や「全体主義」とはどう違うのですか。はじめて学ぶ人も多いのでまず整理をしてほしいです。

 志位 「資本主義」にしても、「社会主義共産主義」にしても、今日は経済のあり方を土台にしてお話ししたいと思います。

 科学的社会主義の礎をつくったカール・マルクス(1818~83)と、その盟友のフリードリヒ・エンゲルス(1820~95)は、人間社会の土台は、衣・食・住など人間の経済活動にあるという社会の捉え方をしました。社会が、衣・食・住など、人間の生活に必要なモノやサービスの生産をどのようにして行うか、そのなかで人間が互いにどういう関係を結ぶか、それが社会と歴史の発展の「土台」にあると捉えたのです。

 その「土台」のうえに、マルクスは「上部構造」と呼んだのですけれども、政治、法律、思想、宗教など、人間のいろいろな意識の形態がある。「土台」と「上部構造」はお互いに作用しあいながら、最終的には「土台」が社会の発展のあり方を決めていく。こういう社会の捉え方を私たちは「史的唯物論」と言っていますが、マルクスは、こうした社会観を発見したんです。

 人間社会を経済のあり方を土台にしてつかんでいくというのは、いまでは常識になっている考え方だと思います。どんな教科書を読んでも、人類の歴史を、奴隷制封建制、資本主義と叙述しているでしょう。これは根本では経済のあり方を言っています。

 中山 経済で区分している。

 志位 そうです。今日のお話も、まずは経済のあり方を土台にして話していきたいと思います。「民主主義」や「全体主義」というのは、政治の形態の問題です。これは別の話になるのですけれど、経済のあり方とも深くかかわってきますから、そこも視野に入れて今日はお話ししたいと思います。

 中山 なるほど。私たちが過ごしている資本主義という経済体制から、あらためて資本主義と社会主義を考えていこうということですね。とても楽しみです。

 

 このやりとりは微妙ですが、中山副委員長が「経済の話なのでしょうか」と言っているのに対して、志位氏は共産主義を経済に限定するような肯定的な回答を与えていません。あくまでも「経済を土台にした」と言っています。つまりきちんと読めば、中山副委員長は「共産主義とは経済システムの話なのか」と質問しているのに、志位氏は「経済システムを土台にした社会全体の話だ」ということにつながるような正確な回答をしていると感じました。ただ志位氏もどこかで「経済システムの話に限定したい」という思いがあるので、共産主義というものが「経済的土台」だけを指すのか、「その上にそびえたつ上部構造も含めた社会全体」を指すのかは明示していません。そのことがあたかも「共産主義とは経済システムの話」という誤解を生むものになっているように思います。

 おそらく田村氏はこれを誤って受け取って、謎の「理屈」をしゃべっているのだと思います。

 これは「社会構成体論争」という有名な論争そのものです。

 マルクスの使った「社会構成体」「経済的社会構成体」というカテゴリー——原始共産制、古代奴隷制、中世封建制、近代資本主義、そして社会主義共産主義——は、果たして経済的土台だけを指すのか、それとも上部構造を含めた社会全体を指すのか、という論争です。

 党首だった不破哲三氏は、「社会構成体と史的唯物論」という論文で、「社会構成体」「経済的社会構成体」が経済的土台だけでなく、上部構造を含めた社会全体を指す概念であると主張しています。

「経済的社会構成体」というカテゴリーは、社会のあれこれの部分や側面をとりだした概念ではなく、社会全体を包括する概念であり、史的唯物論における「社会」概念そのものだ、ということである。(不破『史的唯物論研究』p.35)

 田村氏はこうした論争を踏まえてものを言っているのでしょうか。

 いや…踏まえなくてもいいです。

 私も過去の論争や議論なんか踏まえないことは山のようにありますから。

 そんな論争があろうがなかろうが、とにかく一般人にもわかる理屈として説明してほしいと思います。

 

 繰り返しますが、私は「わかりやすくするために多少の正確さは犠牲にしてもいい」という立場です。「方便」というやつですね。

 だけど、「不正確な上に、全くわかりやすくなっていない、むしろ難しくなっている」というようなものは認めるわけにはいきません。共産党の委員長がこういう水準で大丈夫なのかなと不安に感じます。

 志位氏が上書きした「理論」だけを学んで、それ以前のことを何も学ばないのだとしたらそれは知的な退廃です。