福岡市の段ボールベッド備蓄はゼロ

 能登半島地震で段ボールベッドが注目を浴びている。

被災地では時間を追うことに、過去の災害から積み上げてきた取り組みの成果も出始めている。/一つがエコノミークラス症候群やほこりの吸い込みを防ぐ効果が期待される段ボールベッドの活用だ。16年に国がまとめた「避難所運営ガイドライン」にも盛り込まれ、各自治体が備蓄を進めてきた。(日経2024年1月19日付)

根本〔昌宏北海道看護大学・寒冷地防災学〕教授は、18年の北海道胆振東部地震の時などの経験を踏まえ「板張りの床にブルーシートや毛布を敷いての雑魚寝は避けるべきだ」と指摘。短時間に大量生産できる段ボールベッドを活用すれば、低体温症やエコノミークラス症候群感染症の予防にも役立てられるとして「自治体は備蓄も併せ、避難所開設と同時に設営できることが望ましい」と話している。(西日本2024年1月17日付)

 では、福岡市では段ボールベッドの備蓄はあるだろうか?

 2023年度の市のデータを見てみよう。

福岡市(市民局)作成の資料

 ない。

 段ボールベッドの備蓄は全くないのである。

 

 実は2020年9月9日に市議会で共産党(松尾りつ子市議=当時)がこの問題を追及している。

www.jcp-fukuoka.jp

◯38番(松尾りつ子) 次に、段ボールベッドについてです。
 段ボールベッドは一定のスペースを確保できるため、体を動かしやすく、床から30センチほどの高さがあり、過去の災害で多く見られた雑魚寝による窮屈な姿勢を続けることで起きるエコノミークラス症候群や寝たきりの予防につながります。また、コロナ禍の下で床付近に多いほこりやウイルスを避けることで、感染症対策にとっても重要だと指摘されています。
 そこで、お尋ねしますが、避難者の健康維持や新型コロナの感染症対策をする上で避難所に段ボールベッドは欠かせないものだと思いますが、御所見をお伺いします。

◯市民局長(下川祥二) 段ボールベッドにかかわらず、避難所でのベッドの活用につきましては、一定の高さがあるため、避難所の床に直接横たわるよりも体への負担やほこりを吸い込むリスクが少なく、新型コロナウイルスの感染対策にも有効と言われております。以上でございます。

◯38番(松尾りつ子) では、段ボールベッドをどのくらい備蓄しているのか、お尋ねします。

◯市民局長(下川祥二) 避難所のベッドにつきましては、キャンプ用の折り畳みベッドを備蓄しており、災害時に活用することといたしておりまして、段ボールベッドは保管スペースや保管方法等の課題もあり、現在備蓄しておりません。以上でございます。

 必要性や重要性を認識しているけども、備蓄はないという。

 それでいいのかい? と共産党議員が畳み掛けるのだが、市側はこう言い逃れようとする。

◯市民局長(下川祥二) 市からの物資提供等の支援要請に対しましては、災害時応援協定に基づき、折り畳みベッドや段ボールベッドなど必要な物資を可能な限り速やかに提供していただくこととしております。以上でございます。

 

 要するに、災害になればホームセンターなんかと協定を結んでいるから大丈夫だ、というわけである。

 ふうん。

 じゃあ段ボールベッドがいくつぐらいホームセンターとやらにはあんの? 足りそうなの? と共産党議員が聞く。

◯38番(松尾りつ子) では、協定を結んでいるホームセンターには段ボールベッドの備蓄が実際どのくらいあるのか、答弁を求めます。

◯市民局長(下川祥二) 災害時応援協定につきましては、市からの支援要請に対しまして、可能な範囲で協力いただくこととなっておりますので、調達可能な数量は定めておりません。以上でございます。

 いくつもらえるか決めていない。

 「可能な範囲」つまり「できるだけ」もらう。

 ホームセンターに1つしかなければ1つしか来ないのある。

 したがって、いくつあるかも把握していない。

 そんなの「ない」のと一緒じゃん。

◯38番(松尾りつ子) あれこれ言われますが、これも把握しておられません。それでは、いざというときに避難者に届きません。

 応援の協定を結んでいる他の自治体や国経由で届くと思います、とさらに言い訳する市に対して、共産党議員はこういう実例を挙げて批判する。

◯38番(松尾りつ子) 本市と同じように備蓄を持っていなかった熊本県では、令和2年7月豪雨の際、政府のプッシュ型支援分を含め、県内10市町村向けに約2,100人分の段ボールベッドの確保ができたのは発災から10日以上たってからでした。また、昨年の九州北部豪雨では、佐賀県は福岡市にある南日本段ボール工業組合と協定を結んでいましたが、冠水の影響で交通規制がしかれ、福岡からの輸送が困難と判断し、被災地の近くで製造、輸送ができる業者を探すことになり、段ボールベッドが搬送されたのは発災から4日後でした。国からの支援、民間との防災協定だけでは、いざというときに間に合いません。

 市側はほとんどコテンパである。

◯38番(松尾りつ子) お尋ねしますが、国や協定任せをやめて、市として段ボールベッドについても、十分な備蓄をしておくことが必要だと思いますが、御所見をお伺いします。

 しかし、市は同じ答弁を繰り返すばかりだ。

◯市民局長(下川祥二) 避難所のベッドにつきましては、キャンプ用の折り畳みベッドを400基備蓄しており、段ボールベッド等につきましては、企業との災害時応援協定による提供のほか、国からのプッシュ型支援の一つとして提供されることとなっており、必要に応じて設置することといたしております。以上でございます。

 折り畳みベッドが400あるというが、総人口15万人程度の能登半島の被災自治体で避難住民は最大でも3万人を超え、発災から20日たった今でも1.6万人が避難している。人口の1割だ。

 その10倍以上の人口を擁する160万都市の福岡市では防災計画上の想定避難者数が2.5万人しかない。自宅で支援を必要とする待機者を合わせても3万人だ。「400」という数字は、仮にそれを利用するのが特定の高齢者だけだとしてもいかにも少ない数字ではなかろうか。

 

 そして、能登半島地震でもやはり防災協定があったにもかかわらず、段ボールベッドが届かないというトラブルが起きた。

www.yomiuri.co.jp

県は、災害時に「段ボールベッド」を提供してもらう協定を名古屋市の業界団体と結んでいた。だが、輪島市珠洲市など被害の大きい6市町の指定避難所248か所には、発生から1週間がたっても、この団体からは供給されなかった。団体は「県の依頼で発送する取り決めだが、連絡がなかった」。県は「段ボールベッドの手配は国に依頼した」。協定通りに進まず、最近になって国から団体に要請があり、現地に届き始めた。

 福岡市の髙島市政は、民間企業や他自治体との防災協定をたくさんすることで、重層的なフォローアップをするのではなく、公的な備蓄をしない口実にしている。

 改めるべきだろう。

共産党規約は自己批判の義務づけ(強要)を禁止している

 日本共産党の活動用語として「自己批判」というのがあります。

 党外の人にこの言葉を使ったことがありますが、「あの、ジコヒハンって何ですか?」と聞かれました。

 一応、一般の辞書の見出し語としてあります。「自分で自分を分析して批判すること」(『精選版 日本国語大辞典』)「自分の言動の誤りを、自分で批判すること」(デジタル大辞泉)。なんとなくわかりますかね。

 簡単に言えば「反省」のことです。

 自分のあそこが間違ってたなー、とか、ああいう言動はよくなかった、とか、「自己の過去の言動についての可否、善悪などを考えること。自分の行為をかえりみること」(『精選版 日本国語大辞典』)です。

 さて、日本共産党の規約では、この自己批判はどう規定されているかと言いますと……実は今の規約には「自己批判」という言葉では規定がありません。

 ただ、規約第5条(五)では

党の諸決定を自覚的に実行する。決定に同意できない場合は、自分の意見を保留することができる。その場合も、その決定を実行する。党の決定に反する意見を、勝手に発表することはしない。

と定められています。

 朱で強調した部分がポイントですが、日本共産党規約では「保留の権利」が認められています。

 「自分の意見を保留する」とは、どういうことでしょう。

 自分の元の意見があり、否決されたり、多数意見にならなかったり、上級の決定とくいちがうことがあります。

 その場合、元の自分の意見を捨てずに持っておいてもよい、ということです。しかし、決定は実行してくださいね、というのが規約の建てつけです。

 例えば、「福岡市で行われる世界水泳大会の開催に賛成すべきだ」という意見をAさんは持っているとします。共産党市議団の政策をそのように変えるべきだと意見を会議で言ったとします。しかし、多数にはなりませんでした。

 Aさんは「世界水泳大会反対」というみんなの意見を聞いて、「なるほど、ああいう電通丸投げの巨大イベントを今やるのはおかしいな」と元の自分の意見を捨てて賛成することももちろんあるでしょう。

 しかし、Aさんが頑として「いや、やっぱり賛成すべきだ」という意見を持ち続けることは一向に構わないのです。多数で「反対」に決まったからと言って、Aさん個人の意見や内心を変える必要はないのです。これが規約が定める「自分の意見を保留することができる」という意味です。(ただし、Aさんが個人的に内心でどう思っていようと、決定は実行しないといけません。Aさんは議会では「反対」の立場で行動しますし、党の宣伝行動などで「世界水泳賛成!」と演説したり、そういうビラを撒いてはいけません。)

 「自分の意見を保留する」ことは権利として定めているので、多数派や上級機関などがこの権利を侵害することは許されません。規約違反となります。「世界水泳に賛成したことは私の間違いでございました、と言え!」とか「なぜ世界水泳に反対と思えなかったのかという自分の誤りを見つめる反省文を書いてこい」とか、そういうことをしてはいけないのです。

 このように、意見の保留の権利を認めることで、採用されなかった意見、自分の元の意見を強制的に「反省」させる・放棄させる行為を禁じているのがわかると思います。

 これは内心の自由に立ち入らないということでもあります。

 元の意見をどうして自分は持ってしまったのか、そんな意見や考えを持ってしまった自分は間違っており、それを批判する……そんなことを義務づけたり強要したりしてはいけないのです。もちろん「保留することができる」という規定ですから、保留しなくてもいいんです。しかし、元の意見を持ち続けたいと思ったとき、元の意見を放棄させて元の意見を持っていた自分を批判しろと強要することはできません。

 つまり、日本共産党規約は、自己批判の義務づけ(強要)を禁止しているのです。

 自己批判を義務づける、とはどういう行為でしょうか。

 例えば、「自己批判せよ」と命令したり指示したりすることはそれに含まれるでしょう。

 あるいは、「自己批判をすること」などと決定にしてしまい、それによって迫ることもその一つです。

 「決定の実行」は党員の義務ですから、まさに「義務づけ」になってしまいます。自己批判しないと処分する、あるいは処分や除籍につながるよ、と脅すことも「義務づけ」にあたるでしょう。というか、まさにそれは強要ですよね。特に、専従者など除名・除籍や役員罷免などの処分が自分の生活と直結している人はなおさらでしょう。

 もう一度言います。

 日本共産党規約は、自己批判の義務づけ(強要)を禁止しています

 つまり、共産党の規約は外面に現れる行為を統一することだけが求められていて、内面・内心に立ち入ってそれを改造し、無理やり同化させてしまうようなやり方は禁止されているのです。

 もっと平たく言えば、「本人の意に反して反省文などを書かせてはいけない」ということです。

 

 この記事で言いたいことは基本的にこれだけです。あとは補足です。

 

自己批判をするのは当たり前じゃないか」という人へ

 古い世代の人の中には「自己批判するのは当たり前ではないか」「自己批判を決定することの何が悪いのだ」と思っている人がいるかもしれません。

 これまで処分になるような規約違反を問われたケースのほとんどは、本人も認めている「悪さ」をしたことがほとんどでした。例えば、補助金の詐欺をしたとか、女子高生のスカートの中を盗撮したとかです。だから、自己批判を求めたら自己批判をする例がほとんどだったのです。

 しかし、規約違反かどうかがあいまいな場合はどうでしょう。

 少なくとも規約違反に問われている人と組織側との間で、その行為が規約違反かどうか、大きな意見の違い・争いがあった場合などです。違反の容疑をかけられている側は露ほどにも自分が悪いとは思っていないというようなケースです。

 共産党が分裂した「五〇年問題」のとき、宮本顕治などが味わった悲哀はこういうことでしょう。宮本の行為は「分派行為」と中央多数派から批判されましたが、宮本は敢然と反論しました。

 もし正当な手続きでその人の「規約違反」が認定されたとしましょう。

 そのときでも、その人は、自己批判しなければならないでしょうか。

 もちろん、してもかまいません。会議でのみんなの議論を聞いて自分の考えを変えることはありうるからです。

 しかし、議論を聞いてもまったく納得できない。でも自分の規約違反の認定はされて、処分が決められてしまった——そういう場合、自己批判はする義務はありません

 なぜなら「規約違反・処分」という決定に対して、少数だった自分の意見は保留する権利があるからです。ただし、違反の認定と処分は実行されます。そして、自分では納得していない、決定された多数派の規約解釈には、納得していなくても、従う義務は課せられます。あくまで「納得した」と表明する義務がないという意味です。

カツオは自己批判したことがあるのか…

 もう一つは、古い世代の人は、単なる自己批判じゃなくて、自己批判を強要する(義務づける)ことさえ当たり前だという文化で育っているのですが、これは新しい規約で明確に許されなくなりました。

 これは十分に注意が必要です。うっかり前の文化でやると、自己批判を強要してしまい、それ自体が規約違反になってしまいます。また、内心の自由に踏み込んで圧迫を加えることになりますから、ハラスメントにもつながります。

 確かに昔は自己批判を強制するような党活動が当たり前のようにありました。

 かつては自己批判を義務づける条項が規約にあったんですね。

 2000年に改定される前の党規約の前文には次のような一文がありました。

…党と人民の歴史的事業をなしとげるためには、党はその活動の成果を正しく評価するとともに、欠陥と誤りを軽視せず、批判と自己批判によってそれを克服し、党と人民の教訓としなくてはならない。(旧規約)

 また、第2条では次のように定められていました。

党員の義務は、つぎのとおりである。…

(五)批判と自己批判によって、自己のくわわった党活動の成果とともに欠陥と誤りをあきらかにし、成果をのばし欠陥をなくし、誤りをあらため、党活動の改善と向上につとめる。(旧規約)

 しかし、開かれた党となるために2000年に新しい規約となり、自己批判を義務づけていたこれらの条文(前文・第2条)は全て削除されました。

 他方で、意見を保留する権利は新規約に明確に定められています。

 さらにジェンダーや人権についてこれまでのようなやり方は許されなりました。

 旧規約での自己批判義務の削除、新規約での保留の権利の保障——自己批判の義務付け・強要を禁止した規約改定の意図は明確ですね。

 ジャニーズ事務所の性加害は実に半世紀以上にわたって行われ、つい最近まで「よくある通過儀礼」だとされてきました。それは今や絶対に許されない行為であったことが満天下に明らかとなりました。昔の通りの感覚で、自己改革せずに党活動を惰性でやってしまうと、恐るべき過ちを犯すことになります。

 

自己批判は教育的な働きかけの中で自発的に行われるもの

 では自己批判そのものが禁止されたのかといえば、そんなことはありません。

 市田忠義副委員長が『日本共産党の規約と党建設教室』(新日本出版社、2022年)の中で、

批判と自己批判に強い幹部集団にならなければなりません。(p.303)

と述べているように、自分のやったことを分析し、必要なら反省して、見直す、つまり自分を批判することは、とても大事な精神の営みです。

 しかしそれだけに、自己批判を外から強要してはならないのです。

 消極的な意味では、本人の内心の自由を破壊し、保留の権利を認めた党規約に違反するからです。

 積極的な意味では、本人の自覚が自発的に育つようにしむけなければ、つまり丁寧に教育的に行わねば、本当の「自己批判」ではないし、そうしないと真の思想になりません。

 これは社会の当たり前のルールでもあります。

 浅野秀之さんという弁護士の方は、一般の会社について

始末書(いわゆる反省文)の提出を、懲戒処分による脅しをもって強要するのは、適切な労務管理とはいえません

たとえ会社と労働者の関係といえど、意思や気持ちといった内心まで強要されはしません

と述べています。

 これが今の世間標準のルールです。

 このような新しい状況を理解せずに、自分の昔の感覚で「自己批判」を考えたら、およそ新しい世代の党員を迎え、定着させることはできません。

 第28回党大会8中総ではジェンダーやハラスメントの問題を党活動のなかでも「重視する」とされ、「人権意識のゆがみや立ち遅れ」が党内に残されていることを指摘し、それらと「向き合って、つねに自己改革する努力」を呼びかけています。

この間、残念ながら、これに逆行する言動が党員を深く傷つけ、その成長を妨げ、党組織の民主的運営と団結を損なう事態が、一部に生まれています。

 自己批判を「決定」などによって強要する行為があれば、それ自体が党規約違反であるとともに、まさに8中総が警告したハラスメンを組織が行なってしまうことになります

「宮本から君へ」最高裁判決をうけ福岡市は名義後援行政を見直せ

 映画「宮本から君へ」への助成金交付をめぐる最高裁の判決が出ました。

www.jiji.com

 これについて「しんぶん赤旗」で「『表現の自由』守り抜く足場に」と題した「主張」が出ています。

www.jcp.or.jp

 そこに

今回の最高裁判決は、こうした政治的圧力を抑止し、芸術・文化分野の表現の自由をまもる足場になります。

という一文が書かれています。「主張」のタイトルにもなっており、その核心部分です。これはどういう意味でしょうか。

 福岡市で言えば、私は、高島宗一郎市長がくりかえしている「名義後援拒否・取消」の理由に反撃し、それを変えさせる「足場」になるのではないかと思いました。

 

最高裁判決の意義

 まず、この最高裁判決の意義をおさらいしましょう。

 この最高裁の判決そのものは以下で読むことができます。

https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=92502

 まあ、法律的な文章を読み慣れていない人(私もそうですが)にはなかなか難しいので、その意義を要約した、「赤旗」の「主張」の関連部分を読んでみます。

福岡市にある文化財である元寇防塁(生の松原)

 映画は、政府外郭団体から芸術振興のための助成金をもらっていました。

 しかし、出演者の一人(ピエール瀧)が薬物事件で逮捕・有罪とされたので、政府側は“そんな映画に助成金を出していたら、国が「薬物のススメ」をしているっていうメッセージになるじゃん”という理由で、助成金の取消をしたのです。

 芸術を振興させるより、「公益性」(危険な薬物を社会に広げない)を重視したんだ、というわけです。

 裁判は、「公益性のために芸術振興の助成金は取り消してもいい」という政府側と、「それは芸術の自由、表現の自由への介入じゃん」という制作側の争いでした。

 それで、最高裁は制作側に軍配を上げたわけです。

 この点について、「主張」では判決の意義を次のようにまとめています。

 今回の最高裁は「芸術的な観点からは助成の対象とすることが相当といえる活動」について、「一般的な公益が害される」ことを理由に助成金交付を拒否することに、明確な歯止めをかけました。

 判決は、「公益」が「抽象的な概念」であり、選別基準が不明確になるため「表現行為の内容に萎縮的な影響が及ぶ可能性」があるとしました。そのうえで、表現活動の萎縮は「芸術家の自主性や創造性をも損なうもの」で、「憲法21条1項による表現の自由の保障の趣旨に照らしても、看過しがたい」と断じました。助成金交付に際し「公益」を考慮しうるのは「重要な公益が害される具体的な危険がある場合」に限るとしました。

 「公益性」を考慮してもいいけど、それを認めちゃうと具体的にこういう危険が迫っている、とかめちゃくちゃヤバい場合にだけに限られるのであって、何でもかんでも「公益優先」で助成金を出したり取り上げたりしたらダメよ、それは表現の自由への介入になっちゃうじゃん、というわけです。

 これは、「表現の自由? うん、別に表現したいことがあるなら自由にどうぞ。でも政府や自治体からお金をもらったり便宜を図ったりしてもらうような場合は、いろいろ口やかましく言わせてもらうからね? だってお金もらっているわけでしょ? だったらお上の方針に従ってもらわないと。そうでないと、『あ、国(市町村)はこういう主張を推奨してるんだ〜』って誤解されちゃうじゃん」「もう一回言っとくけど、表現の自由を侵してるわけじゃないからね! お上からなんかもらわずに、自分たちだけで、好きにどっかのギャラリーでやりゃいいじゃん。ほらほら表現の自由だよ」という俗論に大きな打撃を与えたと言えます。

 

高島市長の名義後援外しの理屈をもう一度見る

 さて、その上で、福岡市で起きていることを振り返ってみます。

 福岡市では、市民の文化活動に対して、「名義後援」をしています。チラシやポスターなどに「後援:福岡市」という言葉を入れることができるほか、公共施設や学校などでの宣伝が可能になるという便宜が受けられるのです。

 ところが、福岡市は、高島市長になってから、名義後援を申し込んできた市民の文化活動に対して、特高警察のように口出しするようになり、職員を送り込んで血眼になって探させた挙句、展示の小さなところ(多様な会員のたくさんの伝言メッセージの貼り付けのようなもの)であっても、「原発反対」などの文字があったら、それを見つけて名義後援の拒否・取消の理由にしてきました。

 このため、先ごろ亡くなった被爆体験を持つ漫画家・西山進さんのマンガなども、後援を拒否されました。

digital.asahi.com

◯50番(中山郁美=日本共産党福岡市議) まず、具体的に述べられました1点目の、漫画展にかかわる理由については、西山進さんが過去つくられた作品の内容を調べ上げ、これを問題にしたということですね。確認いたします。

◯総務企画局長(中村英一) お尋ねの漫画展につきましては、当日展示される内容が不明であり、申請者に確認したところ、既に提出された既存資料が当日展示されるものと同様であると理解してよいとのことでございましたので、当該資料には、原発は要らない、消費税増税やめろ、原発再稼働反対といった表現がございましたので、特定の主義主張に立脚している内容が含まれると判断し、不承諾の理由といたしました。以上でございます。

◯50番(中山郁美) 局長は、わかっておられないようですけれども、漫画というのは文化芸術のジャンルの一つです。文化芸術振興基本法では「文化芸術活動を行う者の自主性が十分に尊重されなければならない」とされています。今回のあなた方の対応でいけば、後援を受けようと思えば作品の表現まで制限されることになります。
 これは、憲法が保障している表現の自由を侵し、法にも反するものであり、許されないと思いますが、いかがですか。

◯総務企画局長(中村英一) お尋ねの漫画展におきましては、先ほど申し上げましたとおり、国政レベルで国民的な議論が存するテーマである原子力発電や消費税に関しまして、一方の主義主張に立脚する内容が含まれておりましたので、その主義主張を福岡市が支援していると誤解され、行政としての中立性を保てなくなるおそれがあると判断し、名義後援に関しまして不承諾理由の一つとしたものでございます。
 表現の自由は、憲法が保障する国民の権利でございます。名義後援における、政治的な立場や特定の主義主張に立脚していないかという基準は、あくまで名義後援を行う際の判断基準の一つでございまして、漫画展の開催及び漫画家としての表現を否定するものではございません。以上でございます。

◯50番(中山郁美) 作者の西山進さんは直接、厳しく抗議をされたでしょう。私ですね、弁護士の方に、この問題について見解を伺いました。表現の自由を直接規制をしているものではないが、後援を拒否されることで表現が萎縮するから、間接的に規制に当たるので、運用は極めて慎重でなければならないと述べられました。その点で、本市の名義後援は余りにも恣意的で乱暴だということでした。市長、そして総務企画局は、この対応は誤りだというのを認めるべきですよ。

(2015年9月11日、本会議)

 

 高島市政側はまさに今回最高裁で批判されたのに似た俗論を担ぎ出しているのです。

 共産党(山口湧人市議=当時)の追及と答弁は以下の通りです(2020年9月23日決算特別委員会総会)。

 文化や芸術に対する振興のあり方を定めた「文化芸術基本法」では文化活動や芸術を行政が支援する際に、表現の自由を尊重することがうたわれています。名義後援の拒否・取消はその理念に反していないか、とただしているのです。

◯山口(湧)委員 昨年、愛知県で開かれた国際芸術祭あいちトリエンナーレの表現の不自由展・その後は、開幕から僅か3日で中止に追い込まれた。重大なのは、実行委員会会長代行の河村たかし名古屋市長が作品の一部を批判し、展示を中止させるよう圧力を加えたということである。実行委員会が合意した内容について、それを取り消すような措置が取られたことは、文化芸術基本法の理念から見て不適切であった。本市は、同法にある文化芸術の礎たる表現の自由と文化芸術活動を行う者の自主性を尊重する立場であるのか。

△経済観光文化局長 文化芸術に関する施策の推進については、同法第2条の基本理念に基づき、文化芸術活動を行う者の自主性や創造性が十分に尊重されなければならないと考えている。

◯山口(湧)委員 同法の趣旨は、国や自治体が補助金や名義後援により文化芸術を支援する際、その作品の中身について行政は口を出してはならないというものである。よって、本市は、文化芸術を支援する際、表現の自由はもちろん、芸術家側の自由も尊重する、つまり作品の内容について口は出さないということなのか。

△経済観光文化局長 文化芸術に関する施策を進めるに当たっては、同法第2条の基本理念に基づき、活動を行う者の自主性や創造性が十分に尊重されなければならないと考えている。

◯山口(湧)委員 文化振興事業に関する名義後援において、その事業内容については主催者の自主性を尊重して政治的中立を求めないということか。

△経済観光文化局長 行政としての基本的な立場を踏まえ、公平性や中立性の観点から、福岡市文化振興事業に関する後援要綱において、特定の政党の利害に関与するもの及び政治的な立場等に立った特定の主義主張に立脚しており、かつ行政の中立性を損なうものに対しては、後援を行わないこととしている。

◯山口(湧)委員 同法の立場に立ち、芸術家側の自主性も尊重するという答弁と矛盾していると思うが、所見を尋ねる。

△経済観光文化局長 特定の主義主張に立脚する対象を後援することで、本市がその主張を支援しているとの印象を与え、行政の中立性が保てなくなるおそれがある場合などは不承諾とすることがあると考えている。仮に名義後援を不承諾とした場合でも、事業の開催やその中の表現を否定するものではなく、表現の自由の侵害に当たらないと考えている。

 市側が最高裁で否定された「抽象的な公益性」と似たロジックを看板にし、俗論の「表現の自由」を操っていることが見て取れると思います。

 まあ、福岡市は「否定されたのは公益という抽象的な概念であって、ウチのは、『偏った政治的立場だと福岡市が見なされちゃう』という超具体的な危険だ!」と言い訳するかもしれませんけどね。

 だけど、「ピエール瀧が出演=薬物の推奨」というのがあまりに「風が吹けば桶屋が儲かる」式じゃん、ということです。エクストリームこじつけなんです。

 「後援した文化催事の一隅に『反原発』のメッセージがあるから、福岡市も反原発なんだという誤解を生じさせる!」というロジックも、同じように、エクストリームこじつけ、「あまりに『風が吹けば桶屋が儲かる』式」じゃないんですか。

加藤昭男「森の詩」(福岡市の総合図書館前)

 もちろん高島市長も同断です。

△市長 市民の表現活動については、憲法の保障する表現の自由の下、公序良俗に反する場合などを除き、自由に行うことができるものである。一方、市民活動に対する市の名義後援については、行政の中立性を確保する必要があり、所管局において適切な対応がなされているものと考えている。

 今回の最高裁判決はこうした名義後援における、「表現の自由」への福岡市の介入についても厳しく問うものとなったと言えるでしょう。

 「赤旗主張」の最後の一文は重いものです。

 芸術表現には、時に体制を批判し、人々の価値観を揺さぶるものも含まれます。表現の自由が萎縮すれば、民主主義は窒息します。

 芸術・文化への支援にあたり、欧州では「アームズレングスの原則」が広く認められています。政府や地方自治体が芸術・文化の支援にあたって「お金は出しても口は出さない」という考え方です。

 この原則にもとづく助成制度を確立し、萎縮や忖度(そんたく)のない自由な創造活動の環境づくりが求められます。日本共産党は、綱領に「文化活動の自由をまもる」ことを掲げる党として、芸術家・芸術団体の方々と力を合わせます。

 最高裁判決を受けて、福岡市は芸術や文化に対する振興行政のあり方を「表現の自由」を守る角度から見直すべきです。

「少子化」という言葉への疑問・批判は規約違反か

 日本共産党は党の綱領で「少子化傾向の克服」を課題として掲げています。

国民各層の生活を支える基本的制度として、社会保障制度の総合的な充実と確立をはかる。子どもの健康と福祉、子育ての援助のための社会施設と措置の確立を重視する。日本社会として、少子化傾向の克服に力をそそぐ

 この問題は、2004年の綱領改定時に党内の討論で疑問が出され、わざわざ中央委員会が解明——つまり反論をして、その上で綱領的課題として掲げられたものです(当時の不破哲三議長が反論)。

 次に、母性保護の問題について、行動綱領からはずしたことに賛成だという発言が吉川さん(国会)からありました。さきほどの幹部会で、吉川さんから、母性保護を否定する意味での発言ではなかったという説明がありましたので、私は「安心した」と話したのですけれど(笑い)、ここには、整理しておくべき問題があるように思われますので、若干の解明をしておきます。

 改定案も強調しているように、「女性の独立した人格」を尊重する、ということは、今日、いよいよ重要な問題になっています。ところが、この当然の要求から出発して、一部に、子どもをもっている女性(母親)と、そうではない女性とを区別するなということで、母性保護の要求に消極的になったり、母親になるかならないかは、一人ひとりの女性が自分で決定すべき女性の権利の問題だから、少子化の問題で国が介入するのはおかしいとか、いろいろな議論が出ている、と聞きます

 たしかに子どもを産むか産まないかは、一人ひとりの女性が自決する権利の問題ですが、少子化の現状には、それだけですますことのできない大きな問題があります。社会全体の立場でいえば、社会を構成する女性の多数が、産まない方向で自決してしまったら、社会の存続にかかわる危機をひきおこすわけです。日本は、この点で、かなり危機的な状態が、現にすすんでいます。いま年齢ごとの人口統計をとりますと、世代が五十年違うと、その年齢の人口数が約半分に減るといった傾向が出ています。これは、素直に計算したら、五十年たったら人口が二分の一になる、百年たったら四分の一になる、ということで、社会そのものが衰退に向かわざるをえないことになります。それは決して、健全なことではないし、このまま見過ごしてよい問題ではないのです。

 そういう時だけに、母性の保護という問題は、社会の全体の問題として、特別に重要な意義をもつと思います。また、女性の独立の人格を尊重することと同時に、社会の問題として、少子化の傾向を克服する問題に取り組むことは、当然のことだと思います。

 この不破発言は大会決定として扱われています。

 

 共産党の機関誌「議会と自治体」2023年10月号に載った「若い世代・真ん中世代の地方議員の学習・交流会」を読んでいたら、米倉春奈・東京都議の次の発言が目にとまりました。

 都議団では、「少子化」という定義の仕方への違和感やモヤモヤも語り合ってきました。この間、子どものいない女性が、子どもを産んでいないことにものすごい負い目を感じさせられているのだと気づきました。少子化」という言葉は、そうした女性に対して「なんで子どもを産まないの?」と責める言葉になっているのではないか。この言葉の扱いは慎重でないといけないのではという疑問を会議で話したところ、複数の女性から「会議で少子化対策の話になると、自分が責められているように感じる(過去に感じた)」という話が出ました。そういう議論があり、結論は出ていませんが、小池知事の「少子化対策」の政策のパッケージに対して、都議団は少子化対策の政策としてではなく子育て支援、学費の問題など、それぞれ大事なテーマとして議論をしています。

 会議でこうした率直な話し合いができるのはいいなと思いますし、そういう交流をみんなでできるからこそ、若い層に噛み合ったとりくみができるのだろうと思います。(p.29)

 米倉都議の発言は、党綱領の「少子化傾向の克服」という課題そのものへの素朴な疑問——活動を通じて得た実感をもとにした率直な批判であることがわかると思います。

 そして、都議団の会議においても、女性議員やおそらく女性事務局員などから、そうした米倉さんの声に同調する人が多かったことも、わかります。党内の会議での具体的な発言や議論の様子(「会議で少子化対策の話になると、自分が責められているように感じる(過去に感じた)」など)がここには生々しく描かれています。

 さらに「結論は出ていませんが」として、会議が結論に至らなかったというリアルな結末、その上、「少子化対策」として政策対案を組み立てなかったというプロセスまでが本当によくわかるように描かれています。

 これに対して、同誌上の掲載発言を見ると、同席していた党中央幹部——田村智子副委員長、山下芳生副委員長、岡嵜郁子自治体局長、坂井希ジェンダー平等委員会事務局長(・規律委員会委員)が「綱領に『少子化傾向の克服』と掲げられているということを理解していませんね!」とか頭ごなしに批判することはもちろん、教育指導的に反論する様子も見せていません

 綱領に対する疑問・批判であっても、党中央幹部はやんわりと受け止めているのでしょう。

 そして、雑誌掲載にあたって、この米倉発言を削除したり伏せたり、あるいは補足的な反論を載せたりすることもしていません。ズバリそのまま掲載しています。

 

 「『党の決定に反する意見を、勝手に発表することはしない』という規約違反だ!」とか「『党の内部問題は、党内で解決する』という規約条項に違反するぞ! 党内の議論を持ち出すとは何事だ!」とか「『結論が出ない』などと言って少子化対策を曖昧にする主張を載せるとは、けしからん!」とかいう人は一人もいなかったわけです。

 それどころか、この会議は「第二の手紙」(中総決定)でも、「法則的活動をともに開拓する…具体化」「豊かな宝庫」と会議名をあげて称賛され、この「『豊かな宝庫』を生かし、さらに発展させ」るよう求めているほどの、きわめて重要な位置付けを与えられています。

 

 すばらしいなあと思います。

 たとえ綱領に関わる批判・疑問を持ったことでも、そして、それを党内で意見が割れるほどの論争をしている、そういう率直な議論が、自然な形で公開されているのです。

 規約違反で処分されたりするようなことは全くありません。

 こうしたところに日本共産党の党内民主主義を私は感じます。

 なお、少子化傾向の克服と、一人ひとりの産む・産まないの選択の尊重をどう両立させるかについては、最近(2023年9月28日)でも共産党の「経済再生プラン」の中で述べられています。これが都議団の議論や米倉さんへの中央の“答え”でもあるのでしょう。

 ただしそこでは「少子化」という言葉そのものは使っていませんが、それは今のべた米倉さんのような議論を踏まえたのだろうと思います。

 子どもが生まれる数が減り、人口減少社会になったのは、労働法制の規制緩和による人間らしい雇用の破壊、教育費をはじめ子育てへの重い経済的負担、ジェンダー平等の遅れなど、暮らしと権利を破壊する政治が、日本を子どもを産み、育てることを困難な社会にしてしまったからです。

 子どもを産む、産まない、いつ何人産むかを自分で決めることは、とりわけ女性にとって大切な基本的人権です。リプロダクティブ・ヘルス&ライツ(性と生殖に関する健康と権利)こそ大切にしなければなりません。「少子化対策」と称して、個人の尊厳と権利を軽視し、若い世代、女性に社会的にプレッシャーをかけるようなことがあってはなりません。多様な家族のあり方やシングルなど、どんな生き方を選択しても個人の尊厳と権利が尊重される社会にする必要があります。

 同時に、政治のあり方が大きな要因となって、子どもの数が減り続けることは克服しなければならない日本社会の重要な課題です。「対策」をすべきは、子どもを産み育てることへの困難を大きくした政治を変えることです。

 

「有期・派遣は一時的なものに限定を」と言われたら

 「有期雇用、派遣労働は、臨時的・一時的業務に限定します」——こういう政策はよくよくそれを見つめてみれば、現代日本ではかなり大胆な提起だということが実感できるんじゃないかなと思います。

 「1年たったら契約が終わります」という働き方の人は、もう本当にどこにでもいますよね。

 例えば自治体の「会計年度任用職員」、つまり自治体で雇われている非正規公務員の大多数はこれです。

 一つ例を挙げてみると、公立の図書館職員は73%が非正規です。

 しかし、例えば、図書館の仕事というものは、「海の家」のように、夏場だけ忙しいというわけではありません。あるいは「10万円給付金を各家庭に送付する」というような仕事のように、特別な一時期で終わってしまう仕事でもありません。一年中仕事があり、それがずっと続きます。

 それなのに、なぜ「期間の定めがない雇用」、つまり正規職員にしてくれないのでしょうか。使い捨てでいつでもクビの切れる雇用の調整弁として扱われている——そういう理由しか見当たりません。

 「じゃあ、正規職員として雇うべきですよね」という提起は、理屈から言えば当然です。しかし雇う側は「いや、そんなことをすれば雇用コストが大変です」というでしょう。民間であれば「経営が成り立ちません」という反応が返ってくるでしょうか。

 しかしそのような結果、何が起こってしまったか。

 「雇用コストが大きい」というのは安定した雇用であり、賃金が高いという意味です。それを否定してきたというわけですから、低賃金のままが目先の経営には都合がいい、ということを述べているにすぎません。


 そうしたことを「あたりまえ」にしてしまったために、日本はこの30年、先進国の中でも「賃金の上がらない国」になってしまいました。

 

 「安倍政権が…」とか「自民・公明政権が…」というのではなく、民主党政権時代も含め、この30年、つまりバブルが崩壊してからの30年間というのは、主に自民党政権下で労働の規制緩和が進み、先進国(OECD)の中で平均以下、いや既にかなり下のクラスとなってしまっているのです。

 購買力平価で比べてみた実質賃金の比較が「しんぶん赤旗」日曜版(2023年10月8日号)に載っていて、それをみて驚いたのですが、アメリカの半分にまでなってしまいました。

 日本と同じくらいかそれ以下だったイギリスやフランス、OECD平均からもはるかに遅れてしまっています。


 私は学生時代に、ある経済誌の取材に参加し、大阪でパートの争議を起こした女性たちの話を聞いたことがあります。1990年代の初頭です。当時、まだパート労働は珍しく、争議を始めた女性たちは労働運動などには縁もゆかりもなく「キョウトウ(共闘)会議ってなんのことか全然わからへんもんでなあ、『え、京都の人らと会議すんの?』とか思ってしまって(笑)」などと話していました。これからこういう働き方が増えていくのではないかと思ったものでした。

 つまり「有期・派遣のような働かせ方は一時的・限定的なものに」という政策は、単に「非正規の人の賃金を上げよ」という政策にとどまらない、日本資本主義にこの30年間根深く染みついてしまった思考様式と根本的に対決するものとなります。

 

 日本共産党が「経済再生プラン」を発表しました。

 その中の政策の一つが、これ、「有期雇用、派遣労働は、臨時的・一時的業務に限定します」なのです。

 この「再生プラン」の特徴は、冒頭に、

物価高騰に暮らしの悲鳴があがっています。今回の物価高騰がとりわけ国民生活にとって苦しく深刻な打撃となっているのは、自民党政治のもとで30年という長期にわたって経済の停滞と衰退――いわば「失われた30年」で、暮らしの困難が続いているところに、物価高騰が襲いかかっていることによるものです。

と述べているように、単なる物価対策として賃金を上げよという緊急策にとどまらず、日本経済の脆弱性そのものを克服するラジカルな改革に今踏み出すべきですよという中身を持っています。

www.jcp.or.jp

 したがって、簡単に合意できるものではありません

 例えば、物価高騰で食料やエネルギーの値段が急騰しています。「ほらみろ、だから原発を動かせ」「もっと安い輸入先を」などの目先の話に行きがちなのですが、そもそも食料自給率を根本的にあげるにはどうしたらいいかという問題で言えば、同プランは

農業所得に占める政府補助の割合は、ドイツ77%、フランス64%ですが、日本は30%と半分以下でしかありません。

という例を挙げてるように、農業に、食糧生産はもちろん国土保全機能などの役割を認め、抜本的に税金を投入して支え、担い手を増やせと言っているのです。

 ここでも根本的な議論が必要になります。

 私の知り合いが、九州のある県で、農学者をやっているのですが、彼は2050年に食糧危機が来ると見越して、今のうちに日本での食料自給、そのための農業再興のプランを議論しています。結論はやはり所得補償・価格保障による農業の担い手確保なんですが、これは資源配分における国民合意が絶対に必要になります。

 

 このようにこの30年くらいのスパンでの日本資本主義の脆弱性の改革を行おうと思えば抜本的に改革がどこでも必要になり、そのためには、国民的な合意が個々の政策について不可欠です。

 だから、共産党の「経済再生プラン」の結論は、「おわりに――「失われた30年」からの脱却にむけ、国民的討論と合意を」であり、

 「失われた30年」に陥った原因はどこにあるのか。どうやったらこの深刻な事態から抜け出すことができるのか。

 日本共産党は、あらゆる分野で国民とともに切実な要求実現の運動に取り組むとともに、日本経済を危機から救う抜本的打開策をつくりあげていくための国民的討論を行い、国民的合意をつくっていくことを強く呼びかけます。

 私たちは、日本共産党の「経済再生プラン」は、この危機を打開し、暮らしに希望をもたらす方策を示すものとなっていると確信します。この提案が、「失われた30年」からの脱却をはかるための、国民的討論と合意のうえでのたたき台となることを心から願うものです。

という提起をしているのだと思います。

 「有期・派遣は一時的なものに限定を」なんて言ったら「えー、そんなことできないよ!」という反発もあるんじゃないかと思います。でもそれでいいのか、それを続けてきた結果がこの「失われた30年」じゃないのかという、反発覚悟での問題提起が必要とされているような気がします。あえて、そこに突っ込んで議論するんだと。

 そこに斬りこまない限り世の中が変わらないのですよね

 むしろ正面から論争を巻き起こしていく。それくらいの覚悟が必要だと言えます。

 その意味で共産党が提起したことは時宜にかなったものだったといえます。

 

 こういう作業というのは、政党にとっては「平時」に行うことのように思えます。世論の土台を耕すような作業ですから、すぐに共感しあって、直ちに政党選択(自分の党を選んでもらう)というふうになりにくい可能性があります。今総選挙をめぐる解散風が吹いている、つまり選挙が間近かもしれないこの時期にそんなことをやるべきなのかと思う人もいるかもしれません。

 確かに以前は私もそう思っていました。

 しかし、むしろこうしたラジカルな問題提起こそ、共産党は今やるべきだと思います。社会のメインストリームの選択肢とは違う、そして実は多くの人、あるいは一定程度の数の人がそこに共感するかもしれないような根本的な代替案を示すことに共産党の大きな役割の一つがあるように思います。そこに魅力を感じ、投票先として選択してもらえる道もあるような気がしていて、選挙と関連づけてむしろ今こそ論争を起こすべきだろうと考えます。

 身近な要求から出発して「もとから変える」というこの政党の役割を示すとは、こういうことなのではないでしょうか。

 

 

学校の非常勤講師の残業代についての論戦をみて

 先日、共産党福岡市議団が質問で、会計年度任用職員の賃上げ、その中でも学校の非常勤講師の待遇改善を取り上げていました(堀内徹夫市議)。

www.jcp-fukuoka.jp

 学校の先生は「教職給与特別法」によって残業が出ないひどい仕組みにされているのですが、非常勤講師は労働基準法が適用されるために、この「給特法」のしばりがかからず、残業代を支給することができるのです。

 ところが、多くの自治体では、実際には「残業など存在しない」という非現実的な建前のもとに残業代を払ってきませんでした。

 その風穴を開けたのが名古屋市での運動でした。

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 共産党の堀内市議は、福岡市でも適用例が1件あることも明らかにさせながら、現場の声をもとに実際には残業をたくさんしているケースが山のようにあるから調査せよ、そして残業代をきちんと支払うように教育長に迫りました。

 しかし、教育長は対応は適切であり調査の必要はないというひどい答弁に終始したのです。

 非常勤講師に残業代を支払うというのは、制度の根本を変える決断をしなくても、現状の法制内で政治姿勢を変えて対応すればできることです。しかし、同時に、やはりその「政治姿勢を変える」決断は、大きなものがあります。だから、小手先で対応を迫るものではありません。

舞鶴公園の堀のハス

 あなた方の政治決断次第で自治体の中だけでも、大きく変えることができる。そういう根本的な決断を、現場から、地方からしていかないと、失われた30年はまだまだ続いてしまう。日本を、福岡を、変えるためにも、ここで決断すべきではないか…というような地方政府の幹部をも包み込む、共闘を呼びかけるような論戦がいろんなところで必要になってくると思います。

 今の福岡市の教育長の答弁は、「なんとか残業代を実態にあわせて支払いたいが…」という苦悩はまるで感じられません。木で鼻をくくったような官僚答弁で、歴代の教育長の中でも際立った冷たさだと思います。実際に学校現場で残業している実態は、どう考えても存在するでしょう。それを調査もせず否定するのは、現実を本当に何も見ていないということです。

 地方政府がそれにすら背を向けた時、やはりその地方政府は批判されるべきなのだろうと思います。

 

「元寇防塁遊具」にしては?——箱崎跡地の利用を考える

 福岡市議会で日本共産党の綿貫康代市議が九州大学箱崎キャンパス跡地の利用について質問していました(2023年9月5日)。

www.jcp-fukuoka.jp

8月8日の西日本新聞で、「九大跡地再開発地場連合が解消」という見出しで、JR九州西部ガス西鉄、九電が参加する地場企業連合の意見が割れ、共同入札が白紙になったとの報道があった

というのが質問のきっかけです。

 綿貫市議の質問は、こうした住民の願いがないがしろにされて、大企業があたかも土地を分割するかのようにアリーナ建設などの計画を進め、それがご破算になるという流れをたどったために、住民の気持ちを代弁してそれに怒り、住民の声を反映した跡地利用を進めよとするものでした。

 

 この箱崎跡地をどう利用するかは、私も市長選挙に出馬したとき公約していましたが、地域住民の願いを第一に決めるべきだと思うんですよね。

 もともと地元住民(町内会など自治組織の連合体)が案(4校区提案)を発表していて、そこでは「大きな面積の防災公園」というようなイメージを発表していました。

 最近西日本新聞がアンケートを取っていましたが、第1位はやはり「大きな公園」でした。(「アリーナ」も3位に入っているのと「その他」もかなり多いですよね…)。

www.nishinippon.co.jp

西日本新聞2023年10月1日より

 その後、跡地から元寇防塁の跡が発見され、地元の住民から「元寇防塁跡を生かした公園づくり」という請願(1479人分)が2020年10月8日に福岡市議会に出されていました(継続審議となり、審議未了で廃案)。

https://www.city.fukuoka.lg.jp/data/open/cnt/3/80152/1/2021-0208-01-seigan2-20.pdf?20220107112728

元寇防塁など歴史的遺跡を保存し、元寇防塁記念公園などとして跡地のまちづくりに活用すること

という請願項目になっています。

 「元寇防塁跡を生かした公園」ということについてちょっと考えてみます。

 

現状の福岡市内の元寇防塁

 元寇防塁は福岡市内のあちこちにみられます。

 しかし、たいていは防塁そのものが埋め立てられ、横に石碑や案内板が立っている、というパターンがほとんどです。(下図は早良区百道の元寇防塁跡)

 この百道の防塁跡はまだいい方で、看板だけ、というところも少なくありません。

看板しかない。「草」の展示?(福岡市西区長垂の元寇防塁)

 一番壮観かつ有名なのは、生の松原(西区)の元寇防塁跡でしょうか。 

生の松原の元寇防塁(福岡市西区)

 

 

 ここは現在の地表から1.8mの高さ、1〜1.5mの幅の防塁を復元し、50mにわたって露出し展示しています。教科書などにも載っていますね。

 ではこのように復元・整備すればいいのでしょうか? 私はこれ自体は大事な作業だと思うのですが、不十分ではないかとも感じます。

 

元寇防塁が地域資源となりにくい2つの弱点——不可触性・過疎性

 どの点からみて「不十分」なのか。

 市の方針としては「学校教育、生涯学習、観光など広く活用されるように多様な文化財普及活動を行う」(福岡市埋蔵文化財調査報告第694集「国史元寇防塁(生の松原地区)復元・修理報告書」p.21)とあるんですが、なかなかそうなっていないのではないでしょうか。

 つまり地域の本当の意味での「資源」になって、親しまれていないのではないか、ということです。*1特に子どもたちが接する機会があるかということです(学校の社会科見学などでは来るようですが)。

 私からみて2つ弱点があると思います。

 

  1.  1点目は、子どもをはじめ、地元の住民が近づけないということ。柵があって、この防塁そのものを触ったりできません。仮に「不可触性」と呼びましょうか。
  2.  2点目は、松原を抜けた海岸にあります。夏は少しは人が来るかもしれませんが、人がたくさん来て賑わう場所ではないのです。こちらは「過疎性」と仮に名付けましょうか。

 

 「学校教育、生涯学習、観光など広く活用されるように多様な文化財普及活動を行う」ためには不可触性と過疎性を克服すること、つまり日常的にたくさんの人が訪れて、実際に触ったり、登ったりできるようにする必要があります

 例えば、ひっそりとした松林の中ではなく、子どもがよく行くような日常の場、例えば公園に存在する必要があります。

2023年10月の生の松原の元寇防塁に続く松林(平日の午後4時ごろ)。散歩する人がちらほら。

 しかもそれは柵の向こうで「触ることができない」ものではダメです。元寇防塁に子どもが登ったり、そこから飛んだり、遊べるようにしておいて初めて元寇防塁の「高さ」とか「幅」を実感できるようになるのではないでしょうか。

生の松原の元寇防塁にはかなり近づけますが、柵で囲まれていてさわれません。

 

登れる古墳——山ノ鼻古墳公園

 この点では、私は、福岡市西区にある「山ノ鼻古墳公園」が参考になると思いました。

山ノ鼻古墳公園(福岡市西区)。左が古墳で自由に登れる。右が公園の遊具。

 九大学研都市駅のど真ん前で、イオンモールもあるので、日常的、特に土日は親子連れで公園自体が賑わっています。そして、古墳に登る子どもや住民のたくさんいます。古墳の頂上は非常に眺めがよく、爽快です。

山ノ鼻古墳公園の頂上から下を眺める

 このように古墳に自由に「登れる」ようにすることで、子どもたちがここで遊ぶことができるし、住民も散歩がてらに来るようになります。実際にそのように活用されています。

山ノ鼻古墳で遊ぶ子どもたち(23年10月)

 

山ノ鼻古墳で遊ぶ子どもたち・その2(23年10月)


 そうすることで、子どもも住民も「古墳の大きさ・高さ」というものを実感・体感できるようになります。

 

 

「ざんねんな古墳公園」——不可触性と過疎性がネックに

 このような古墳公園は各地にあるのですが、「山ノ鼻古墳公園」と比べると残念なものがいくつかあります。

 この「山ノ鼻古墳公園」の近くに「大塚古墳公園」というのがあります。山ノ鼻古墳ほど大きくはありませんが、それに準じる大きさの前方後円墳です。しかし、ここは、古墳そのものには登れないのです(私は教育委員会の許可をもらって頂上に登らせてもらったことがあります)。

大塚古墳公園(福岡市西区)。手前が遊具。向こうが古墳。柵で仕切られる。

 近くにあるので古墳の大きさはわかりますが、やはり実際に登ったり遊んだりできないと、子どもの視野に入ってきません。

 他方、「登れる古墳」も全国で他にもあるのですが、近くに遊具がなかったり、僻地だったりして、日常的に子どもや住民が来ないような場所だったりします。そうすると、いくら「登れる」古墳であっても、日常的にそれに接することはないのです。

 ここでも不可触性と過疎性がネックになっています。

 

 

「やよいの風公園」はいいところまでいっているんだけど…

 福岡市西区には「やよいの風公園」という遺跡公園があります。

bunkazai.city.fukuoka.lg.jp

 ここは国史跡である吉武高木遺跡(弥生時代の遺跡が中心)を公園化したものです。弥生時代の甕棺に三種の神器を彷彿とさせる鏡・剣・勾玉などの宝物が含まれていたことで、「最古の王墓」と言われています(というか「言っています」?)。

 この公園は、資料館などの有人施設はありません。解説板と模型が展示されており、建造物としては東屋とトイレがあるだけです。端的に言えば「原っぱ」で、そこに遺跡の説明が点在しているのです。

 しかし、重要なのは、甕棺や出土物の模型が配置され、それに「触れる」ことです。福岡市の観光情報サイトでも次のように売っています。

2.7ヘクタールの敷地に当時の地形や植生を復元し、出土した銅剣・鏡・かめ棺などの実物大のレプリカを展示。公園内を巡りながら、遺跡や弥生時代の暮らしについて「見て、触れて、感じて、学べる」これまでにない歴史公園です。

やよいの風公園にある甕棺の模型

 ただ、残念なのは、ここに人が日常的にくるかなあ? ということです。私が行ったとき犬の散歩をしたりジョギングをしたりしている地元の人がいました。車椅子の障害者も介助者とともに数人(おそらく施設入所者でしょう)来ていました。それは秋で陽気がよかったこともあるでしょうが、ほとんど原っぱなので、真冬や真夏は相当キツかろうと思いますが…。

 位置も田んぼのど真ん中にあり、しかも遊具がないので、子どもや親子連れが来るだろうかという疑問がわきます。

 しかも、「甕棺に触る」「青銅の剣に触る」という行為が、「学習」的にしか行われえず、子どもが遊びの延長でそれに触るというのはまずないだろうと思われたことでした。

 「触れる」というアイデアは非常にいいなとは思ったのですが、かなり条件が縛られている印象を受けたのです。

 いいところまではいってるんですけどね…。(いやもちろん「そんなことはないよ」という情報があれば教えてください。)

2023年の10月の連休中にはさすがに駐車場に車も多く、家族連れがテントを張っていた。

 「無人の遺跡施設」という点では、福岡県糸島市の新町遺跡資料館があります。

www.city.itoshima.lg.jp

 展示室で遺跡が覆われているんですが、無人です。田んぼと集落の真ん中にポツンとあります。展示としてはなかなか充実しているとは思いましたが、資料館内は薄暗い。一人で訪問するのはかなり寂しく、なかなか勇気がいりますね…。

 遺跡のような文化財を「資源」にしようと思った時、まず「遺跡に資料館を建てたらいい」という発想がくると思いますが、すぐに「常駐の職員を置くのはお金が大変だ」という困難に突き当たり、「では無人の資料館にしてはどうか」という発想に行き着くのだと思います。

 「やよいの風公園」はそれを公園化して、地域住民や来訪者が公園として遊べるような開放性を備えたところに、すぐれた発想があるのだろうと思います。

 

不可触性と過疎性を克服した元寇防塁記念公園とは

 このような経験を踏まえて、つまり不可触性と過疎性を克服して、もし、東区箱崎で「元寇防塁」を公園化するとしたら、どういうことができるでしょうか。

 まず位置ですが、九州大学箱崎キャンパス跡地は、子育て世帯が多く、跡地を公園にして子どもが遊びに来るという点では理想的な場所だと言えます。地下鉄の駅もすぐそばにありますし。実際、近くの貝塚公園はゴーカートもあり、子どもづれで賑わっています。つまり、遊具や適当な休憩施設などがあれば、子ども・親子連れは必ず来る、ベストなロケーションです

 次に防塁をどう再現するかですが、石積み遺構をそのままはもちろん無理ですし、再現・整備したとしても、危なくて子どもが登ったり近寄ったりできません。

 ではどうすればいいか。

 大事なことは、子どもが日常的にそれに遊びの延長で触れることです。

 子どもが元寇防塁の高さ・幅などを実感してもらえればいいのですから、樹脂などで作った安全な素材で登ったり降りたりしてもらう「元寇防塁遊具」を作ってはどうでしょうか

 報道によれば、東区箱崎での元寇防塁の高さは1.5mと推計されているようです。日本公園施設業協会の基準では幼児用は最大2mだからちょうど良いのではないでしょうか。

 滑り台をつけてもいいと思います。

 ゲーミフィケーションの要素を入れて、ロープやネットで登らせたり、その時間を競えるようにすることもできるでしょう。

 ボルダリング化もできないでしょうか?

www.townnews.co.jp

 そうすることで、元寇防塁を乗り越えるとはどういうことか、それを築くのにどれだけの時間がかかるか、などをわかってもらえるのではないかと思います。

 

文化財を「観光資源」ではなく「地域の資源」に

 政府の戦略として、文化財を観光資源にしようとする動きが強まっています。

www.jcp.or.jp

 髙島市政が政府に先駆けて、文化財の管轄を教育委員会から市長部局(経済観光文化局)に移してしまったのは、まさにそうした動きと揆を一にするするものでした。

 元寇防塁という文化財はまず保護・保存が最優先ですが、同時にそれは地域の住民と無関係に、切り離されて存在してはならないとも思います。

 福岡市が2019年に策定した「福岡市の文化財の保存活用に関する基本方針~福岡市歴史文化基本構想~」では、「地域の文化財の認知不足」を課題としてあげています。

地域で文化財の保存活用を図っていくためには、まず地域にどのような資源があるのかを知ることが大切です。指定・未指定を問わず多くの文化財が存在していることを地域と共有していく必要があります。地域によっては、コミュニティ成員の入れかわりが激しく、文化財の情報共有のあり方に一層の工夫や注力を必要とするところがあります。 また、地域によっては、住民による文化財の保存活用に関する活動が活発なところもあ り、今後もこのような活動をさらに広げていく必要があります。(p.70)

 「福岡市⽂化財保存活⽤地域計画」(2022年6月)においても

史跡等の公開の推進

元寇防塁は中世における国家間の緊張を示す遺跡として、鴻臚館跡・福岡城跡とは異なるかたちで「ゲートウェイ都市」としての歴史を知ることができる史跡であり、このような本市固有の歴史がもつ価値や魅力を活かした整備・公開を図ります。また、 現在、本市が力を入れて取り組んでいる九州大学箱崎キャンパス跡地では、新しいまちづくりと調和した史跡の整備・活用に取り組みます。

が記され、

地域の文化財を活かした多様な学びの強化

なども方向付けられています。

 しかし、福岡市(髙島市政)の方向は、観光資源化の思惑が強すぎ、地域や住民が関わるときは、町内会などにイベントをやらせる方向で関わりを強めるとか、学校教育で学ばせようとするなど、自然な形で住民が文化財を身近に感じられる工夫が非常に弱いと言わざる得ないのです。

 日常的に住民が自然に文化財に親しめるにはどうしたらいいかという工夫が必要なのではないでしょうか。そして、経済資源にすることを自己目的にするのではなく、まず地域の資源とすることを行政は考えるべきでしょう。

 

 箱崎キャンパスの跡地利用をめぐる住民運動は、「こういうものが作りたい」というポジティブな目標が必要になってくると思います。西日本新聞のアンケートで改めて「大きな公園」であることがクリアになったわけですから、それを旗印にしたらどうかなと思っています。

 その際住民運動が掲げてきた「元寇防塁記念公園」のようなものを目指すのであれば、上記のように、「どうすれば遺跡が地域住民の共通の資源になるか」という問題意識のもとに、いろんな遺跡公園や遺跡活用例を調べたらいいと思います。そこにこれまでそうした住民運動に参加してこなかったような人たちも巻き込んだらいいんじゃないでしょうか。みんなでそういうところを訪ねて調べて回るような運動は、楽しいと思いますよ!

*1:地域の人たちが清掃などに取り組んでいることは承知の上です。

私はなぜあのブログ記事を書いたか——党規約にそい、大会決定を実践するもの

 私がどういう意図で本年3月5日付のブログ記事を書いたのかをお話ししておきましょう。

kamiyatakayuki.hatenadiary.jp

 結論から言えば「日本共産党の綱領、理念、歴史を丸ごと理解してもらい、『共産党だから支持する』という積極的な支持者をうまずたゆまず増やしていくことが躍進のカギをにぎる」という第28回党大会第二決議の実践そのものなのです。

 

批判の中で生まれる社会科学

 社会科学は教科書のように体系が描かれるのではなく、多くは、それまであった古い考えや間違った考えとの激しい論争の中で、新たな体系を生み出すという形で生まれてきます。マルクスの『資本論』もそうです。あれはマルクスの考えを教科書のように羅列したものではなく、それまでの経済学を批判して書かれた本です。『資本論』の副題が「経済学批判」になっているのはそういう理由からです。  

 同じように、共産党の決定も社会科学の文献です。*1

 過去のすぐれた決定は、党内外の激しい論争の中で生み出されたものが少なくありません。例えば、宮本顕治の『日本革命の展望』には61年綱領制定時の論争に答える形での中央報告が収録されています。革命戦略における間違った考えを批判しながら、新しい綱領の考えを説明しています。決定の中に「批判」と「積極的な叙述」がセットになっています。

家の近くの公園の濠のハス

 近年でもこうした「間違った意見への批判を書いた決定」は数多くあります。

 現在の綱領への改定を提起した第22回党大会7中総の決定の一部を例にあげます。

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 当時の不破議長が多くの異論に答える形の記述になっているのがわかると思います(この発言は「決定」扱いになっています)。この決定の中には採用を拒否された意見、すなわち間違った議論もたくさん入っています。例えば原発について具体的に記述せよとか、宗教者を統一戦線の対象として名指しして入れよとか、全体の記述の構成をかえよ、などといった意見です。

日隈さん(中央)から、宗教者との対話・交流がこれだけ大きく発展している今日、統一戦線の対象に宗教者が入っていないのはどうか、という指摘がありました。気持ちはわかりますが、ここにはきちんと考えなければいけない一つの問題があります。

〔…中略…〕

 宗教者という集団が、集団として、統一戦線の側にくわわる根拠となるような共通の利害をもった集団かというと、そういうことはないのです。多くの宗教者が私たちとの対話に応じ、私たちの事業に力を貸してくださっている、これはたいへんありがたいし、すばらしいことですが、それは、基本的には、一人ひとりの宗教者の方の信念からの行動であって、そこに、宗教者全体の共通の利益があるからではない、と思います。現実に日本の宗教界にさまざまな流れがあり、いろいろな世界観があることは、宗教委員会の方がたは重々ご承知のことです。もし私たちが、統一戦線を構成する諸勢力のなかに、宗教者をまるごと入れてしまったら、これは、かえって、やってはいけない、おこがましいことをやったということになるでしょう。宗教委員会の方がたが多少さびしい思いをしても(笑い)、ここはスジを通さないといけないところだ、と思います。

 読んでもらうとわかりますが、「なるほどそういうことか」とつい読んでしまう中身でしょう? 非常に面白いし、興味が湧くし、理解が進むのです。もちろん、「不破さんは『宗教者を統一戦線の対象に入れないのはいかがなものか』という日隈さんの間違った意見を紹介し広めている」などと難癖をつける人はいないと思います。

 私は前々からそう思っていたのですが、こうした論争の痕跡が決定に残っていることは、情勢のどういう問題と格闘してこの決定が出来上がったかを理解する上で大変役に立つと思ってきました。また、何よりも、党内では自由な討論が行われているという民主主義を示す上でも、この上ない証拠だと感じていました。そのことを、討論を紹介しなくても、決定を紹介するだけで理解してもらえるのです。

 「共産党は一枚岩で、上の言ったことに無条件で従う」かのように攻撃されるわけですが、これに対して、「そんなことはない」と百の説明を尽くすよりも、みんなで決めた決定を紹介し、その決定に論争の痕跡が入っているだけで、党内民主主義を広く示すものになると思ってきました。

 今回がまさにそういうものでした。

 2月の県委員会総会では、私の意見は否定されたのですが、正直言ってそんなことはどうでもよくて、共産党ではそういう侃侃諤諤の議論が行われ民主主義が実践されていることが、(討論の内容を紹介しなくても)決定そのものの紹介だけでもわかると考え、ああいうブログを書いたのです。こういうスタイルの決定文書は、そういう意味ではとても「おトクな」決定文書なのです(討論の議事録を書き出して論争を紹介するという「規約違反」をしなくてもいいから)。

 討論の議事録などを紹介しなくても決定を紹介することだけによって、党内民主主義の姿を広く県民に理解してもらえる——これは規約と大会決定に沿った重要な実践であると私は考えました。もちろん、県総決定で「間違い」だとされた意見を広めることがないように、それが間違った意見であるという認識を共有し、その立場で実践していくことを明記しましたし、「間違った」とされた意見への反論を、結語はもとより、赤旗や志位委員長の記者会見から引用・紹介することで、10倍近い分量をとって載せるという念入りで丁寧なやり方をとったのです。

 第28回党大会第二決議では

日本共産党の綱領、理念、歴史を丸ごと理解してもらい、『共産党だから支持する』という積極的な支持者をうまずたゆまず増やしていくことが躍進のカギをにぎる

という方針を打ち出しましたが、党内民主主義などの党の本当の姿を知ってもらう日常的な活動の一つとして、私はあのブログ記事を書きました。

福岡市早良区にある元寇防塁跡

 なぜ私があのブログの記事を書いたかをもう一度まとめますが、「2月の県委員会総会の決定を紹介することは党内民主主義の豊かなありようを広く県民に知ってもらう、しかも規約を守りながら知ってもらう最善の方法だと確信し、あのブログ記事を書いた」ということです。

 したがって、私のブログ記事は規約を守り、「日本共産党の綱領、理念、歴史を丸ごと理解してもらおう」という大会決定にもっとも忠実な、実践の最先端を行くものだと思っています。しかも反対意見を述べて否決された人が不貞腐れて不満をぶちまけるのではなく、ともに実践していくことを決意しているのですから、日本共産党の姿を正しく示す良い見本になると思いました。 

 

ブログ記事は党規約に沿ったもの

 もちろん、私のブログ記事は党規約に沿ったもの、規約の範囲内のものです。「今から分かりやすくて面白いことを書くから、規約を少しくらいハミ出ても許してね」という立場は絶対にとりません。

 私は、少なくとも党員としての私自身について、「多少は異論を党の外に出しても、組織は俺に寛容でいてくれよ」という立場を現在とっておりません。規約は厳格に守られるべきです。*2その立場から言って、私の3月5日のブログ記事は1ミリも規約からはみ出ていません。

 要点だけ簡潔に示しましょう。

 

(1)「決定に反する意見を勝手に発表」していません

 私の記事は決定に「反する」どころか、県委員会総会の「決定そのもの」を紹介することを目的にしたブログ記事です。総会決定自体が、私の元の意見への痛烈な批判ですし、ブログ記事には“私の元の意見は「間違っている」という認識を共有する”と、ちゃんと書いてあります

 そしてただ「間違っている」と「ちょろっと」書いてあるだけでなく、元の私の意見(約1000字)を、そのブログ記事の中で3倍(約3000字)の分量で批判しています。リンク先を入れれば10倍(約1万字)の分量で批判しています

 「決定に反する意見」を徹底批判しているとさえ思います。これほど丁寧に「間違った」とされた意見を批判しているブログ記事を見ることは、なかなかないでしょう。

 謬論(間違った議論)を批判する文章なんて世の中にザラにありますが、もしも、その文章で批判されている謬論部分だけを切り出して「この文章は謬論を書いている!」などと言い出す人がいたら、残念ながらその人は文章読解力がゼロなのだと思わざるをえません。

 

(2)「党内の内部問題を勝手に外に出して」いません(決定編)

 「県委員会総会の決定は県民には秘密だ」という謎理論を唱える人がいるかもしれませんが、そうしたルールは規約には書かれていませんし、そのような内規も存在しないことを党機関に確認しています。*3

 「大軍拡反対署名を広げよう」「給食無償化の世論を県内に起こそう」という県委員会総会決定は何ら非公開・秘密ではありませんでしたし、私も周りの党員も、みんなフツーにハンドマイクや宣伝カーで大音響でしゃべっています。「松竹問題をきっかけにした共産党についての誤解を解こう」というのも同じです。秘密でもなんでもありません。*4

 

(3)「党内の内部問題を勝手に外に出して」いません(討論編)

 「県委員会総会の他人の発言や討論を勝手に外に出しているのではないか?」という方が1人だけいましたが*5事実の問題として、私はそのような他人の発言や討論はどこにも書いていません。他人の討論の内容を書いたとも記していません。

 その方が「この部分は他人の討論を紹介した部分ではないのか」と私に尋ねてきた部分を拝見しましたが、そこは全部赤旗」の記事をコピペした部分でした。「それ、コピペですよ」と申し上げたら、その方には納得していただけました。

 「他の人の討論内容を外に持ち出している」という人がおられたら、総会の議事録に照らして、誰のどういう発言を私が持ち出しているか、具体的に示していただければと思っています

 しかし、それはできないと思います。なぜならそのようなことは書いていないからです。私が書いてないものを、「これがそうだ」と指摘することはまず不可能です。

***

 いかがだったでしょうか。

 「他にもここが問題では…」って言いたい人がいらっしゃるかもしれませんが、私が今、理不尽にいじめられているのは上記の3点だけです。他は争点になっていません*6

 私はどこまでもきちんと規約を守る党員なのです。*7(本文終わり)

 

*1:第28回党大会第6回中央委員会総会結語 https://www.jcp.or.jp/web_jcp/2022/08/post-129.html 「中央委員会総会の決定というのは、社会科学の文献でもある」。

*2:もし規約を変えたいときは党内で努力して変えるべきだと現時点では考えています。

*3:「一般の会社でも取締役会で決めたこととか非公開に決まってるだろ」とかいう人がいるかもしれませんけど、一般の会社は会社法や社内規程に議事録の扱いについての明文の定めがありますよね。

*4:もちろん、例えば、ある会社の中の党員数や、どの人が党に入ったかなどは、公開されてきませんでした。

*5:党外の人。

*6:ひょっとして「ヒミツにしていたけどそういう規定が実はあるんだ」とか、「書いてない部分は全部中央が裁可するんだ」とかいう「主張」をする人がいるかもしれませんが、そんな「中央=全能の神」であるかのごとくの主張は論外として(五〇年問題は中央委員会多数派による暴走だったことを想起しましょう)、全く知らされていないルールや、後から作ったルールで、人を裁くことはできません。ちなみに付則である規約56条は「規約に決められていない問題」についてであり、万が一それを根拠に処分したらまさに「後から作るルール」であり、それを事前に行った行為の処分根拠にすることはできません。

*7:党規約についての一般論として言いますと、規約違反が正式に決定されるまでは、いかなる「容疑者」=「調査審議中」の党員であっても、その党員はニュートラルな存在です。「調査審議」のために必要な範囲で党員としての権利は制限され、例えば一定の会議に出席できなくなったり、党内の選挙に出たりすることができなくなったりします。しかし、それ以外は、自由に権利行使できますし、フツーに党員・市民として生活・活動できます。他方で、容疑をかけた組織の側は、正式に「規約違反」だとの決定が下るまでは、その党員の扱いを「慎重」にすることが規約で求められています。「調査審議中の容疑者だから」とか、「権利制限をかけている党員だから」とかいう理由で、「必要な範囲」を超えて党員としての活動を規制してはいけません。ましてや市民的な自由に属する活動を規制することは許されません(例えば、市民なら誰でも参加できるような集会への参加を規制したり、特定の市民と接触を禁じたりすることなど)。