「しんぶん赤旗には訃報欄があります。
同紙が紙面をつくるソフトを新しいものにしてから「お悔やみ」という欄のタイトルがつくようになりました。
ご覧の通り、名前、年齢、地区、入党年、死亡日、主な経歴、葬儀状況などが簡単に載ります。
思うに、これを拡大し、150字ほどでその人の党員人生を振り返ってはどうでしょうか。
そう思ったのは、河原仁志『異端 記者たちはなぜそれを書いたのか』(旬報社)を読んで、岩手日報が東日本大震災の犠牲者約6000人を数字で終わらせず、その人の人生やエピソードを簡単に記した短信をつけるという「忘れない」と題した取り組みをやったからです(2021年3月で3488人まで掲載)。
「忘れない」の紙面掲載が始まった2012年3月11日午後、陸前高田の新聞販売店から岩手日報がなくなった。口コミで連載が伝わり、近隣の人たちが相次いで買い求めたためだった。
懐かしい顔写真の脇に添えられたわずか150字の逸話。「庭木の剪定が上手で、口数は少ないが優しい人だった」「面倒見がよく、礼儀や生活態度に厳しい熱血教師だった」……。販売店でまとめ買いしに来た地区の長老は「これは永久保存版だ」とつぶやいたという。
斎藤孟は「この取材を通して意外だったのは、被災者たちの多くが知人友人がどうして亡くなったかを1年過ぎても知らなかったということです。近隣同士でもなかなか聴けなかったことが『忘れられない』を読んでわかったという人が大勢いた」と話す。(前掲『異端』p.98)
私は別のところで、自分の親の人生をふりかえる聞き取りをしているという記事を書いたのですが、その中で、次々と亡くなるコミュニストたちの人生があまりにもふりかえられずにそのまま埋もれてしまうことを惜しむ気持ちを書いたことがあります。
私が2018年に市長候補をしてからしばらくして、名前を聞けば誰もが知っている、いままさに絶賛活躍中の大スターの祖母に当たる人が急に私を訪ねて来てくれたことがあります。その人の夫(つまり大スターのおじいちゃん)がレッドパージに遭い、それでも長年不屈に闘ってきた共産党員であったのですが、その手紙やら記録やらが手元にあるので、これを後世に残してくれないかと頼まれたのです。私は、知り合いの業者などに聞いて回って、それらの膨大な記録を少なくともPDFのような形にできないだろうかと思ったのですが、結局それはうまくいきませんでした。
こういう話が誰にも知られず、埋もれていくのかなあと寂しい気持ちになりました。
議員や幹部だった人はまだ「偲ぶ会」などがあって、参加者で思い出を交流できます。少し大きな会合になるとスピーチがあったりします。
しかし、一般のヒラ党員はそういう機会もありません。
党員、特に古参の方のそれは近代史の断面と言ってもいい生き様ですし、新しく入った人も「そんな一面があったのか」と驚かされることもあります。
私は訃報欄を広げて、そうした党員人生を振り返る欄にしてみてはどうだろうかと思うのです。
もちろん、そういうことには課題がたくさんあります。
例えば、紙面のどこを割くのか。
難しいですが、私は番組欄やスポーツ欄を縮小していいのではないかと思っています。
あるいは、誰がその短信を書くのか。
岩手日報は9年間で取材に関わった記者は89人にものぼったと言います。なかなか大変な作業です。しかし、赤旗には天下に誇る「通信員」制度があります。支部のいち党員が記事を書いて送ることができるのです。どうしても短信がかけない場合は、現在のようなごく簡単な訃報だけにして、原則的に短信をつけるようにしてはどうでしょうか。
共産党員の人生を振り返ることで、共産党に入るとはどういうことかを、党幹部が大所高所から論じる形ではなく、身近にいたあの人の姿として、一般の党員が思い浮かべられます。また、その短信を書くプロセスがそれを思い起こさせ、共有する機会にもなるはずです。
そして、率直に言えば、地域の支部が高齢化し、党員の多くの関心は自分や仲間の「終活」にあることは事実です。ですが、そのことに向き合ってもらうのは決して後ろ向きな作業ではないと思うのです。
岩手日報は東日本大震災があったとき、各地の避難所に避難している避難者の名簿に紙面を割く、という決断をしました。
取材現場では「各社の記者が被災の雑観や動画の発掘に走る中で俺たちは名簿集めかよ」という愚痴も聞かれた。太田代〔当時の県政担当の遊軍記者〕も「最初は正直言って怖かった。大刷りを見るとまるで電話帳みたいで。だから本当はもっと載せられたのだが初日はおっかなびっくりで2ページ分に限定した」と回顧する。(前掲p.89-90)
しかし掲載後、販売員が避難所に数十部を置いて回ると、
みんなが奪い取るように持っていった。(同前p.90)
といいます。
「記者生活の中で記事や紙面に対し社外からいろんな反響を経験してきたが、こんなに読者から手応えがあった仕事は初めてだった。派手な見出しや衝撃の写真ばかりに目が行きがちだったが、新聞とは何かということをあらためて考えさせられた」(同前p.91)
避難者の名簿を載せるというのは途方もない課題(名簿の正確さ、名簿集めに人手を割く社内の反発など)を乗り越えないといけなかったのですが、正確性より手がかりが大事だと判断したとのこと。
もともとの問いは「災害現場では何が求められいるんだ」という問いだったと言います。「安否情報」がその答えだったのです。
「しんぶん赤旗」は発行の危機にあると言います。
2025年2月の、ある党の会議での報告によれば、日曜版は発行危機ラインの65万部を割ったとされています。2024年の党大会決定では赤旗読者は「85万」と述べているので、おそらく日曜版65万、日刊紙十数万、おそらく15万くらいでしょう。
私は、今でもいろんな現役の党員や党議員と話しますが、「え、そんな記事ありましたか」「中央の訴えってそんなこと言ってましたっけ」という事態に出くわします。
党内で読まれていない可能性があるのです(特に日刊紙が)。
党員の訃報を改革することで、赤旗の(日刊紙の)紙面を開くようになる——そういうことはないでしょうか。そして、訃報の短信が、共産党の歩み、すなわち生きた党史を振り返り、それによって今後の活動をどうしていくかを考える糧にもなると思います。