なんで「専従は委任契約」みたいな話を今だに信じている人がいるか

(この記事は私の不当な除籍・解雇事件の問題の一部についてです。全体像を簡単に知りたい方は24年8月20日付の記事を先にお読みください。)

 

 2024年12月3日に京都で行われた私と松竹伸幸さん、上瀧浩子弁護士との討論企画に、会場いっぱいにご参加いただきありがとうございました。

 中身については、詳しくは追って書いていきますが、印象に残ったこと、感想的なことを3点。

 一点目ですが、会場にいろんな立場の人が来られていて、私は「はてな匿名ダイアリー」で私のことを書いておられた方が参加されてびっくりしました。

 そのかたは私や松竹さんの問題を純粋な興味関心から追っていたとのこと。募金までいただきました。共産党員か党に詳しい人ではないかと思っていたのですが、お話をしてみて興味関心だけでここまで詳しく読み取れるんだ! とびっくりしました。

 ニュートラルだったり、野次馬根性だったり、いろんな動機はあっても——それこそアンチっぽく見えていても実はある種の愛情的な執着で関わってくれていたりする人もいて、様々なんだなとあらためて思いました。 SNSやコメントの表面的なやりとりだけでは軽々に判断してはいけませんね。

 

 二点目は、共産党の関連団体、いわゆる「民主団体」の中でも現状への強い批判や不満があるということも終わった後の私への訴えや懇親会でのお話も含めて、認識を新たにしました。

 特に、ハラスメントの深刻さや、訴えてもまわりが反応してくれない冷たさについては衝撃を受けました。

 

 三点目は、議論の後半——私は民主集中制の現代的な発展ということを提案しましたが、終わった後の懇親会の場での賛否も含めて、共産党を今後どう改革していくか、みんな話したがっているんだなあということでした。

 今の共産党幹部が「自慢」している「議論」では、実は肝心なところは抑圧されてしまい、ほとんどそれが実現できていないということの裏返しでもあります。

 こういう雰囲気や文化が党内に広がれば、それ自体がとても魅力的だし、入ってみたいなと思ってもらえるんじゃないかと感じました。

 この裁判闘争自身はとても大変なんですが、他方で、「社会運動を始めた頃のような原初的なワクワク感」がとてもあります。それは他の人も同じのようで、熱心に関わってくれている人たちからそうした感想が異口同音に聞けるのはなんともうれしいことでした。

www.youtube.com

 

昔の党専従の働き方

 この討論の中ででた論点(と私の答え)を今日は一つだけ紹介しておきます。

 私の裁判は「共産党職員は労働者である」という前提で始まっているということは提訴の日に述べました。

kamiyatakayuki.hatenadiary.jp

 その上で、「なんで1970年代に『労働者じゃなくて委任契約ないしこれに類似する法律関係』みたいな判決が出たの?」という疑問がこれまでにも出ていました。

 これは宮地健一さんの事件についての1978年の地裁判決ですね。

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/600/019600_hanrei.pdf

 これは戦前から戦後の党職員=職業的革命家の活動スタイルが出発点にあったからです。

 例えば渡辺武さんというのちに共産党参院議員になる人のパートナー(渡辺泰子)が書いた回顧録がありますが、戦後の党専従者の活動というのはまさに融通無碍、縦横無尽で、渡辺武さんなどは地下活動に入って何ヶ月も家に帰ってこない。あるいは労働者や中小業者の中に入って運動をオルグしたりする。そういう活動をやっていました。

 1947年のときの渡辺泰子さんの記述です。

「学校を辞めて、共産党の常任活動家〔専従=党職員のこと〕になろうと思うが、いいか。」…

給料は三千円くらいは出せるだろうと言っていたと。私はまさかと思った。…共産党にそんなお金が出せる筈はないと、かなり理性的に考えたのに、では全然給料が出なかったら、この先子供二人を抱えてどうやって暮らしてゆくかについては全く考えてなかった。…

間もなく武は何も言わずに帰ってこなくなった。噂では、はじめての福岡県の教育委員の選挙の候補者にされて福岡県中を歩き回っているらしいというので、じっと帰りを待っていた。当時の党の、非合法時代そのままの秘密主義にも呆れるが、占領下で進駐軍違反の名目ですぐ逮捕された当時の情勢で、どうしようもなかったのかもしれない。

 暢気に待っているうちにお金がなくなった。(渡辺泰子『息子たちへ(上)』p.89-90)

 だから、毎日定時に出勤して定時に退勤し、決められたことを指示通りにやる、それ以外のことはしない、というような「サラリーマン」としての働き方とは無縁の存在でした。そんなことでは革命はできない。専従は職業的革命家なんだ——そういう思いが強かったし、実際にそうだったわけです。だから「革命政権ができたら年金なんか十分もらえる」とうそぶいて公的年金もろくに払わないことがあったりしたそうです。

 しかしそこからもう半世紀近くが経ちました。(私はこの判決の頃8歳です。)

 だんだんそういうものは改められていったのです。

 社会保険にもちゃんと入るし、就業規則に相当するものもできる。出勤時間と退勤時間も決められ(守られているかどうは別として)*1、休日も規定され、有休の規定もある。そういうふうになっていきました。

 1970年代、80年代、90年代というのはそういうものがまさに改められていく過渡期でした。

 だから、宮地裁判で「ない」と言われていた指揮命令のために拘束されている条件は今では名目上かなり整えられています。

 半世紀前の地裁判決がそのまま通用するはずもありません。

 特に私のような市の税金=政務活動費を使って雇用されている場合はなおさらでした。出勤時間は午前9時半、退勤は午後5時半と厳格に決められており、勤務場所も福岡市議会棟13階の控え室と決まっていました。書類として市議会に提出されています。コロナの時でさえ家でリモートワークをしたいと申し出たことがありますが、それは原則的にはダメだと言われ断念したことさえあります。他にも私が「指揮命令」に従っている証拠は山のようにあります。

 古い世代の共産党員はその古い専従観が抜けきれていない人が少なくなかったと思います。浜野忠夫副委員長が

会社と雇用契約をむすんでいるサラリーマンとはまったく違うわけです。(浜野忠夫『時代を開く党づくり』p.200)

と2008年に出版した本でこう言ってしまうのは、むべなるかな、なのです。除籍された砂川絢音さんの話では、福岡県委員会の副委員長は「党専従者は法律上は労働者だけど、本当は労働者ではない」と常識的な人が聞いたらびっくりするようなことを、砂川さんの調査の場で述べていたようです。

 しかし、さすがに司法の場には持ち出せないと判断したようです。

 とまあ、ここまで詳しくではありませんが、そういう概要を会場ではお話ししました。

*1:共産党福岡県委員会では勤務員は毎日自分の手書きで出退勤時間を記入します。