本日(26年5月24日)付「しんぶん赤旗」で「睡さんに聞く」を読みました。「初心者など人に優しいデモを紹介するネット上の『連帯カレンダー』」の管理人だと言います。

デモといえば、集団で集まってシュプレヒコールを叫ぶというのが、ぼくら世代の常識ですが、最近のデモのありようは多様です。この睡さんも
通っていた大学の図書館前で『本読みデモ』をやりました。静かに座っていればいいのでわりと楽でした。
と言います。デモの多様化は聞いていて部分的に知っていましたが、記事を読んで「へえ」と驚きました。
私はこの記事を読んで「デモの空間を怖いと感じるのはどうして?」という記者の問いと睡さんのその答えに惹かれました。
平等や解放をめざす場のはずですが、その中でも上下関係や権力の偏りが生まれてしまうことがあります。
知識や活動歴が長い人が自然と発言力を持ちやすかったり、社会的にマジョリティー側にいる人が無意識のうちに運動の中心になりやすかったりします。問題を指摘すると「対立を持ち込むのか」などと言われたりします。
社会の中にある差別や力関係は、運動の中にも入り込みます。同じ思い出集まったなかでハラスメントの相談はしづらいものです。だからこそ、「善意」や「理想」だけに頼らず、あらかじめ仕組みを考えておくことが大切です。
デモに限らないな、と強く共感しました。
実際、記事は睡さんの示す簡潔なグラウンドルールについて示した後、最近の排外主義に反対する抗議行動で気になることについての、睡さんの言葉を紹介しています。
最近、気になっていることですが、ヘイトスピーチをする差別主義者にたいして抗議するさいに“知能レベルが低い”“おまえらはバカだ”といった言葉が使われることがあります。これはグラウンドルールにある「差別的表現はしない」に違反する態度です。社会運動をする人のなかに、差別的表現をする人がいると参加したくなくなると言うスタッフがいます。当然です。
睡さんは「誰でも加害者になりえます」としてわかった時は謝罪することの大切さを説きます。
「誰でも加害者になりえます」をきちんと受け止めるのは実践上はなかなか難しいことで、「私は十分気をつけている」と自負している人間——例えば私のような者も十分その立場になり得ます。
そしておそらくそういう局面では、まず「自分のやっていることはハラスメントではない」という強い気持ちが生じると思います。「やばいなあ」と思ってやる人は少なくて、「気をつけている」自覚のある人こそ、否定したくなるような気がします。
本当にハラスメントではないんだと思うからこそ、私への「ハラスメント抗議」がもしあったら信じられないわけですが、その場合にどうするか、自分でも考えておく必要があるなと思いました。やはり客観的に判定してもらえる専門家が身近にいたり、独立した相談の窓口や機関があるといいなと感じます。
睡さんは『だめなことについてのえほん』を読むといいのではと言っています。
記事が取り上げているその絵本で提示されているルールは次のようなものです。
- 勉強できないこと/していないことを責める
- 中指を立てる
- 暴言を吐く
などがその中にありました。
私はここに書かれてあることがルールとしてあらゆる組織や集まりにとって自明だとは思いません。ルールはあくまでも当事者間の合意でできることが基本だと思います。だけど、多くのものは私としても納得できるものでした。
それは権力者(国家権力者や大企業・大組織など)に対してもそうでしょうか?
難しいところですが、非権力者同士での考えだとまずは前提を置くとしても、権力者に対する抗議なども、やはりこういうことが求められていく時代なのかと思います。「それはあれほどの殺戮をしてきたイスラエルやヘイトを撒き散らす政治家に対しても同じか?」と言われるとなかなか自信がないのですが、「自分の意思表示を周りの人にできるだけ多く受け入れられやすいものにする」という点に立ち戻ってみれば答えは自ずと出てくるような気がします。