教育勅語の「父母ニ孝ニ」は今でも使えるか

 新しく文部科学大臣になった柴山昌彦氏が教育勅語について問われ、「アレンジした形で今の道徳などに使える分野は十分にある」「普遍性を持っている部分がみてとれる」と答えたことが問題になっています。

 この論法の批判は、すでに他のみなさんがさんざんされています。

 これらの徳目がすべて「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」という天皇制国家(そして時代状況的には軍国主義国家)への奉仕へと結びつけられていることから、勅語全体をもう使わないものだとされました。

 だから、念入りに排除決議まで国会で行われ、「部分的にはいいことも言っている」という議論もわざわざ取り上げられて厳しく批判されてきたのです。

hbol.jp

 たとえば「スターリン憲法も『休息の権利』とかが記してあるので、アレンジした形で今に使える分野は十分にある」ってわざわざ言います?

 

「父母ニ孝ニ」は切り離した道徳として使えるか

 さてその上でなんですが、教育勅語に記された徳目をあえて切り離して見つめてみます。

 例えば「父母ニ孝ニ」っていう徳目が教育勅語には記されています。要するに「親孝行しましょう」(「孝行」とは「子が親をうやまい、親につくすこと」)っていうことです。

 

 教育勅語では天皇に対する「忠」とならんで「国民の実践道徳の第一」として重視されました。天皇に対する忠誠と、親に対する孝行を、似たような形で実践させることで、天皇制国家への奉仕をする人間をつくろうとしたわけで、やっぱりそういう話と切り離せないんです。*1

 だけど無理やり切り離す。

 「親孝行するのは大事でしょ?」と。

 

 うん、まあ、じゃあ、いったん切り離してみましょうか。

 一般的に「親孝行するのは大事」なのか、と。

 大事そうに見えますね。

 当たり前やん? という人もいるでしょう。

 だけど「親だからうやまい、親だからつくす」んでしょうか。

 もっと言えば、親であれば自動的にうやまわれるポジションなんでしょうか。

 親であればオートマチックに「つくされる対象」圏内に突入できちゃうんでしょうか。

 

 榛野なな恵Papa told me』(集英社)は、父子家庭を描いた寓話的なマンガです。その第8巻に「地震 雷 火事 親父」という格言を、小学生の娘である的場知世(ちせ)が批判するシーンがあります。

 なぜ父親という存在は「こわい」という属性を最初からかぶせられているのか? と。

 下のコマはそのシーンですが、父であり作家でもある的場信吉(しんきち)の表情を見ると実に説明しにくそうです。おそらくその格言に父親が入ることを信吉自身も信じていないのでしょう。

f:id:kamiyakenkyujo:20181012141043j:plain

榛野前掲書、8巻、28ページ


 知世の表情を見てください。心底不思議そうな顔をしています。

 怒られた時に怖いと感じるだろうという信吉の説明に対して、知世が整然と反論します。

でもその時の「怖い」は

悪いことした私とお父さんの間にある

気持ちだもん

お父さんにはりついてるわけじゃないわ

それに私はすごく反省するだろうけど

それってお父さんが

こわいからじゃなくて

とっても愛してるからだわ!

 

 知世の顔つきのクールさが絶妙です。

 知世が批判しているのは、父親という属性に最初から畏怖や敬意があるわけではないという点です。知世と信吉が築いてきた関係があるからこそ、そこにうやまう気持ちがうまれ、おそれる気持ちが生じるわけです。当たり前の感覚です。

 知世のセリフの中で「お父さんにはりついてるわけじゃないわ」という一文が秀逸で、アプリオリ(経験に先立っていること)な属性であることの否定を、実にわかりやすく言っていると思い、私はいつでもこの種の話題になると知世のこのセリフを思い出します。

 

 「父母ニ孝ニ」という徳目の押しつけでは、その関係が見えなくなってしまいます。特に虐待や自分をぞんざいに扱ってきた「親」を自動的にうやまったりできるものではありません。

 

なぜお年寄りをうやまおうと思うのか

 「お年寄りをうやまおう」というような徳目も同じです。

 コンビニのレジの対応が遅いと言って店員に怒鳴り散らしている高齢者を、高齢者であるという理由でうやまえるわけではありません。

 ぼくのおじいちゃん、竹とんぼを一瞬で作っちゃった! すごくない!?――人生を重ねてきたお年寄りの、そんな一面を生活の中で見るうちに、うやまう気持ちがだんだんと生じるんじゃないんですか。

 私の祖父はもう亡くなりましたが、パンクした自転車のチューブを一瞬でなおしたり、ハトやヒヨコを飼う小屋をさっと作ったりしました。「スゲエ……」と素直に思いましたね。

 そして、もう少し大きくなってから彼がいかに苦労して荒地を田んぼへと開墾したかとか、近所の農家の嫉妬で嫌がらせにその開墾地に石をばらまかれてもめげなかったとか、そういう話を聞いて、自然に敬意が高まりました。政治的には死ぬまで全然相入れなかったんですが。

 

 教育学者の佐貫浩さんは、人権が科学が生み出した価値であっても、それ自体が徳目や絶対的真理として無条件に受容されるものじゃないと言います。じゃあ道徳(道徳性)って何か。

道徳性とは、何が自分の取るべき態度(正義)であるのかを、他者との根源的共同性の実現――共に生きるということ――という土台の上で、反省的に吟味し続ける力量であるということができる。(佐貫『道徳性の教育をどう進めるか』新日本出版社、p.51)

 難しいですね。

 難しいんですけど、かんたんにいえば的場知世の言っていることなんです。

 お父さんと娘はともに生きるために、関係を続けてきた。その中で敬う気持ちが芽生えたし、大好きな気持ちも芽生えた。そして、時にはこれは叱らなければこの子はダメになると考えて、叱った。叱られたほうは反省した。

 こういうふうに、どうしたらお互いにいい生活をおくれるかを考えて、関係をつくり(他者との根源的共同性の実現)、それをなんども見つめ直していく力が持てること(反省的に吟味し続ける力量)――これが道徳だというのです。

 

 「父母ニ孝ニ」は今でもリサイクルすれば使えると信じている一部の政治家の感覚は古いと言いますか、こわいとすら思います。

 

 安倍さん周辺の政治家は、「切り離したら教育勅語の徳目はリサイクルできる」という思い込み自体を、もうやめるべきじゃないでしょうか。

 

私が市長になったら

 私が市長になったら、では「父母ニ孝ニ」を否定するように指示するんでしょうか。

 いいえ、そうではありません。

 それは現場で決めてもらいます。

 子どもの権利条約では、子どもの最善の利益、その子にとって一番大事で必要なことが図られるよう求めています。

 目の前にいる具体的な「その子」にとって一番いいこと、一番大事なことはなんなのかは、マニュアルや一般原則を杓子定規に当てはめることではなくて、その子のおかれた具体的な状況をみないとわかりません。

 市長のやることは、特定の徳目を押しつけたり、「グローバル教育」だとか言って特定の人間像を目指すように仕向けたりすることではなく、ひたすら条件整備――予算をつけていい環境で学べるようにすることだと思っています。

 

 私が市長になったら、学校教育をどうするか?

 一言で言えば「内容には口出ししません。条件整備をがんばります」となります。

*1:「ブリタニカ国際百科事典」参照。